エスメラルダ
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馬車が轍を刻む振動が心地良かった。
勿論、気持ち良いのはこの馬車の座席が最高級のスプリングを用いたブロケード張りのものだからだし、車輪一つにしても細心の注意が払われた、言ってみれば芸術品なのだからなのだけれども。
芸術の国メルローア。
職人達も皆、高いプロ意識と職人魂を持ち合わせている。
レーシアーナはほうっと溜息を吐いた。
レイデン家のレーシアーナになるのは久しぶりだった。いつもブランシールの侍女であるだけの自分なのに。
それに、気の重い役目だ、と、レーシアーナは思う。
『望月』……あの絵を手に入れられてからブランシール様は変わった。
何処がどう変わったかまで言い表せないのが歯痒いが、だが、確かに。
わたくしの知っているあの方ではない。
きっと宮廷内に蔓延る噂の半分は真実なのだろう。魔女ではないと思う。思いたい。レーシアーナがただ一人の主と忠誠を誓った相手が魔女などに魅入られているなど、そんな事はあって良い筈がない。でも……。
「魔女より怖い存在であるかもしれないわ」
呟いて、レーシアーナは薄く紅を施した唇を舐めた。
そうだったら戦わなくてはならない。レーシアーナはドレスの胸元に短剣を隠してある。短剣の使い方はしっかりと習った。ブランシールがレーシアーナ以外を遠ざける為、もしもの事があったら肉の盾となってブランシールを守るのが、レーシアーナの役目であった。ただの侍女ではないのである。
もし、悪い女だったら、殺してしまおう。
短絡的に、レーシアーナはそう考えた。
咎は一身に引き受けるつもりだ。
ブランシールからの信頼も裏切ることとなり、それだけが心苦しいけれども。
緑麗館まではあっという間だった。
そして、御者が馬を止め、侍女が大きな扉をノックしようとした時に、扉は勝手に開いた。そして出迎えの侍女と従僕。
レーシアーナは驚いた。
まるでわたくしが来るのが解っていたかのようだわ。でもそんな。まさか。
「レーシアーナ・フォンリル・レイデン様、ご到着―!」
レーシアーナは更に驚いた。
レーシアーナの本名を知る者がこの中にいるだなんて!? 自分はいつも『侍女のレーシアーナ』で通っていたのに!
「あ、あの」
レーシアーナは困ってしまった。しかし、役目は役目だ。ちゃんと済まさなくてはならない。
「わたくしは……!」
レーシアーナが必死に絞り出すその声を無視して、体格の良い侍女は言った。
「館の中庭にあります東屋で、我らが主人はお茶の準備をしています。十時のお茶の時間に貴女様がいらして下さってようございました。主人は毒蛇の毒に汚染された宮廷にて咲き誇る野望は持ち合わせておりませぬが、一人でお茶の時間を過ごすのは寂しいと、常々私達使用人に申しておりました」
「まぁ」
何だか変な気分だった。
何もかもが芝居の台本のようにするすると進んだ。レーシアーナは自分が警戒し過ぎであったのだろうかと訝る。
だが、普通に考えればやはりおかしい。
魔女だという噂は本当なのだろうか? 自分の来訪を予言して見せたそれは魔力ではないだろうか。
気を抜くと、殺されるかもしれない。
どきん、と胸がなった。
ああ、そうだ。ブランシール様のお手紙。
レーシアーナの顔に、ふと赤みが差した。
彼の名前を思い出すだけでも、レーシアーナには勇気に繋がる。
「レイデン家のレーシアーナです。ローグ嬢にお会いしたくて参りました。取次ぎを」
声は震えてはいなかった。それだけでも良しとせねば。
「私がご案内致します」
侍女がすっと前に進み出た。
「マーグと申します。レイデン様」
「有難う」
尊大な態度に出るのは、レーシアーナにとって結構難しい事だった。しかし、レーシアーナとてメルローア宮廷の花であれば出来ぬ事もない。
緑麗館はそこかしこにエメラルドがあしらわれた、豪奢な作りの館だった。大理石をふんだんに使ったそれは王家の離宮といっても通るであろう品の良さである。