エスメラルダ
 その三日後。
 リンカーシェの人生は一変する。
 出逢ってしまったのだ。ジブラシィと。
 普通の出逢いだった。
 友人である伯爵令嬢の家でお針の会があったので、そこで孤児院に送る服をせっせと縫っていると、時計が鳴り響いた。
 十七時は、こういった若い乙女達の催し物の終わりを告げる時間である。
 リンカーシェは、もうあまりお針の会や編み物の会などに出席できない事を悲しく思った。結婚してしまえば、招待されなくなる。お茶の時間などで女主人として人をもてなす事はあるだろう。だけれども、誰かの為に何か出来る時間はもう余りにも少なかった。
 帰り際に、リンカーシェと、他に招待されていた合計七人の娘達がこの家の当主に挨拶をしに行った。
 そこで、ジブラシィとリンカーシェと目が合った。
 合ってしまった、という方が的確かも知れぬ。
 その瞬間、世界から何もかもが消え、たった二人だけが残った。
 どうしましょう? わたくし達、おかしいわ。貴方はどうしてそんな目で私をご覧になるの? ねぇ。お答えになって。
 リンカーシェが言葉にならない声をあげる。だが、誰にも聞かれなかったようだ。
 男もじっとリンカーシェを、リンカーシェだけをみていた。
 その後、リンカーシェはどうやって馬車に乗ったのか覚えていない。馬車に同乗していたセリヌスに、さっきの男の事を聞いてみると「知らなかったの?」と驚かれた。
「フレッズレイン伯爵家は借金を抱えているのよ。あの男から。あの男はジブラシィ・ローグと言うのよ。実はわたくしの家もあの男に借金しているわ。いえ、今日集った娘の内、借金を抱えていない家は貴女の家位よ」
 まさか! と、リンカーシェは叫びそうになった。借金? 今日集ったのは子爵家と伯爵家、そして侯爵家、皆名門と言われる家の出なのに。
「では、さっきのローグとやらは町人なの? あんな立派な格好をして、まるで紳士のようだったわ」
「そりゃ、紳士でしょうよ。町人であっても貴族の家への出入りが許されているのですもの。でもそれだけよ。貴族ではないわ。所詮は卑しい男よ。あんな男から借金しないと家の体面が保てないなんて恥ずかしいわ」
 セリヌスが唇を噛んだ。
「嫌な思いさせてしまってすまなかったわ、セリヌス」
 リンカーシェは素直に謝った。
 でも、と、心の内で囁きながら。
 生き生きとして、素敵な男性だったわ。貴族の男達より余程しゃんとしているわ。お洒落だし、素敵な男じゃない。


 リンカーシェは家に帰ってからも気付けばぼんやりとジブラシィの事を考えていた。
 お風呂で身体を洗われている時でさえ。
 本に熱中する事も、あんなに好きだった裁縫仕事も手につかなくなってきた。
 母は余り良い顔はしなかったが、父は満足していた。
「アレも嫁ぐと言う意味を噛み締めているんだ。お前にも覚えがあろう?」
「わたくしは……」
 母は言いよどんだ。婚姻前の娘の頃、確かに何も手につかなくなったが、それは期待でなく絶望していたからだ。結婚なんかしたくなかった。家の貧しさと次々に生まれる赤ん坊のおむつの為にダムバーグ家に嫁ぐ事になったのだ。
 だから、リンカーシェのように、夢見る表情をしていなかったことだけは確かだと思う。
 リンカーシェはもう一度、ジブラシィに出逢うと決め、お針の会や合唱団や、とにかく貴族の家で催し物があるとどれも逃さず出席した。そう決めて動くとジブラシィと出逢う事は簡単だった。
 そして。
 リンカーシェはジブラシィに恥ずかしげに求婚され、その時になって漸く、彼女は彼に恋している事が解ったのだった。
 一目合った時から?
 そんな事ありえないわ。普通は……!!
 理性が叫ぶのと、リンカーシェがジブラシィの腕に収まったのはほぼ同時だった。
 ジブラシィは、子爵位を金で買った事は伏せ、ただエメラルドの指輪を贈った。
「必ずまた会えると信じていた」
 小鳥のように細く華奢な少女。
 そして二人は駆け落ちし、リンカーシェは家を捨て、代償に名前を奪われた。
 だけれどもリンカは幸せだった
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