エスメラルダ
◆◆◆
それから一週間後の真夜中、『真白塔』の最上階から火が出た。
レイリエの部屋である。
油による火災だったらしく、水をかけると火の勢いが更に強くなり、そして消火に来た者達からは幸いにも死者こそ出なかったが、怪我人は沢山出た。
砂をかけ、何とか類焼を防いだ人々は真っ黒焦げの焼死体になった女の遺体を発見する。
怪我など何処にも見当たらなかった。
恐らく、焼身自殺だったのだろうと、消火の指揮を取ったアインスハルト将軍は言った。
フランヴェルジュには弟が手を下したのだと解った。しかしその弟は何処へ行ったのか。
火災の直前に、『真白塔』から何者かが馬車を走らせた事は、誰にも気付かれなかった。
月だけが見ていた。
◆◆◆
ブランンシールは苦悩する。
膝に頭を埋めて苦悩する。
父上、漸く貴方の仰っていた言葉の意味が解ろうとしています。
ですがもう手遅れでしょう。
災いの種はまかれた。
何だか嫌な予感がするのは何故でしょう?
それは真実『彼女』の恐ろしさを知ったから。骨の髄までしみたから。
いや、支配されたのだ。
足の先から髪の毛の一本まで完全に彼女に虜にされたから。
だから、ありえないと解っていても恐怖が沸き起こるのだ。
父上、貴方は今の僕と同じように苦悩されたのでしょうか?
だが、もうあの女はいないのだ。
翌日、ブランシールは目の下にくっきりと隈を作って兄の居室を訪れた。
毎朝の習慣は覆されるわけもない。
「ブランシール、お前……」
フランヴェルジュは弟を抱き締めた。
昨夜、何があったのか聞かなくてはならなかった。
だが、そんな話は朝食の前に相応しいだろうか?
それに聞きたくないと思ってしまうのだ。
目の前に座る弟が叔母に当たる女性を焼き殺した……などとは。
フランヴェルジュは昨夜、必死に考えた。元々思考用に作られていない頭で、懸命に。だけれども、何が正しく何が間違っているのか解らなかった。
昨日までは、『真白塔』からレイリエ死亡の報が届かない事に、安堵していた。
だけれども、昨日は───。
「兄上、食事に致しましょう」
「う……む、そうだな」
フランヴェルジュは席に着いた。
朝食が運ばれてくる。
フランヴェルジュとブランシールは何事もなかったように食事を摂り始めた。
だが。
「う……!」
フランヴェルジュは椅子を蹴るように立ちあがると洗面台に食べたものを吐きだした。
別に毒が入っているわけではないのだ。
「兄上!」
ブランシールが背中をさすろうとすると、フランヴェルジュは身体を固くした。
ブランシールは諦めたように笑みを浮かべると自分の席に戻った。
『太陽』、エスメラルダの絵が彼を見ている。
『気をつけておくことね。あの娘は禍つ子。必ず貴方達の運命を狂わせるわ』
今はもういない女の言葉を思い出す。
エスメラルダを夜会に招きさえしなければ、僕達の運命は狂わなかったと?
それは有り得ないとブランシールは思う。何故ならもう、ブランシールは自分が壊れているという自覚を持っているからだ。
「済まなかった、ブランシール」
フランヴェルジュの言葉が痛い。
潔癖な兄には昨夜の事が頭で理解していても感情が追いついてこないのだろう。
「ブランシール」
「はい、兄上」
「背中をさすってくれないか? どうも玉子が悪かったらしい」
「解りました」
玉子!? そんな筈ある訳ない事位ブランシールはよく知っている。だがフランヴェルジュは己の方から接触を許してくれたのだ。
ブランシールは兄の広い背中をなでながら、いつの間にか泣いていた。号泣に変わるまで、そう時間はかからなかった。
いつの間にか兄の腕の中に居た。
それでも、ブランシールは泣き続けた。