エスメラルダ
 すぅっと、老人の姿は影に溶けた。
 最後の言葉は老人のしわがれ声だった事を思い出し、エスメラルダはくすりと、笑った。作り笑顔ではない笑み。
 心を奪われるなど。
 あの老人に見える男はこの部屋の主にこそ真実の忠誠と愛を誓っているであろうに。
 だからこそ、バジリルがエスメラルダの前から姿を消した……逃げ出した事の持つ意味にエスメラルダは気付かない。
 彼は虜になる前に逃げ出したのだ。
 エスメラルダはいつの間にか縫いとめられたように足を止めていた。
 扉を見る。天井の高い神殿の作り。王城の二階分はありそうなその空間にある大理石の扉は天井まで続いており彫刻がなされていた。
 玉持つ竜が花の中で踊るようなそんな意匠。
「見事だわ」
 我知らず、エスメラルダは呟いていた。
 芸術品だ。国宝級の。
 その扉の向こうに、バジリルが忠誠を誓う者が居る。
 扉の前に朱と白とで編まれた紐がぶら下がっている。来客はこれを引っ張るのだろうとエスメラルダは思った。そうしたら取次ぎの侍女が……侍女?
 神殿では巫女と呼ばれるのだろう、神官と呼ばれるのであろう、そういった人物とエスメラルダは神殿に足を踏み入れて以来誰一人として通りすがった者はいないという事に気付いた。その事は少し怖い。
 何というか、何故こうまで人の気配がしないのだろう。
 この床は時間をかけて磨きぬかれたものであった。廊下の窓も、鏡も、何処にも曇りはなかった。なのに。
 奇怪な。
 思ったがエスメラルダはその言葉を飲み込んだ。
 口にするには憚られたのだ。
 そしてありったけの勇気をかき集めて紐を引っ張る。
 音がしない……そう思ったのは一瞬の事。
 ずずず……と音を立てて扉が動いたのだ。
 重い大理石の扉が音を極力立てないように開く。誰の手も借りず。

「お入りなさいな。エスメラルダ・アイリーン・ローグ」

 涼やかな声がエスメラルダの耳を打った。
 張り上げている訳でもないのに自然に耳に響く声。水のように澄んだ声だとエスメラルダは思う。
「はい!」
 エスメラルダは微かな緊張を抱きながら、一歩踏み出し、その声の主を探した。
 扉の向こうは花に埋もれていたのである。赤、白、ピンク、青、黄色、オレンジ……言葉に尽くせぬ花に埋もれていた。
 その芳香たるや下手な貴婦人の香水よりきつくエスメラルダの鼻を打った。
 安香水かそうでないかなんて些細な事だわ! この匂いときたら!!
「どちらにいらっしゃるのです?」
 エスメラルダはそうっと気遣いながら一歩一歩歩く。足元には活けられた花々がある故に踏んだり倒したりしないように必死なのだ。
 エスメラルダは微笑を強張らせながら歩いた。どう考えてもこの部屋から声がしたのにマーデュリシィと思しき人物は影も形も見受けられない。
 エスメラルダは半ば自棄になって歩いた。
 目指す場所がある。部屋の隅に一箇所だけ花がないところがあるのだ。
 もしかしたらそこに扉が在るのかもしれないわ。そうとしか考えられないわ。その奥にいらっしゃるのよ。
 そして、その隅の手前についたとき、エスメラルダはがっかりした。扉がないのだ。
 だが花の飾られぬ隅の床には文様が描かれていた。何の文様だろうと思う。
 そんな場合でないにしてもエスメラルダという少女は気になった事は確かめないと気がすまない性質の持ち主であった。
 見詰めていても何だか解らなかった。神に仕える者達が習うエリーク文字までは母もランカスターも教えてくれなかったのだから当然か。

「そこよ、エスメラルダ。怖がらずに足を乗せて」
 
「はい」
 響いた声に、エスメラルダは従う。
 何が掛かれているのかも解らない文様に足を乗せる。少しの恐怖心と、冒険好きな少女の気持ちで。
 その刹那、エスメラルダは自分の体が影に解けるのを感じた。床の文様と共に。
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