エスメラルダ
「エスメラルダ」
 呼ばれて、エスメラルダは顔を上げた。何故だろう。酷く疲れていた。
 だけれども、その声には逆らい難い魅力があった。
 硬く閉じていた瞳を開けると、光溢れる野の原である。
「此処は……」
 横たわっていたエスメラルダは慌てて体を起こす。
 そこはまさに光の楽園。
 花弁が、葉が、茎が、草が、土が、目を焼かない優しい光に満ちている。
「気がついた?」
 ふわり、と、唐突に『彼女』は現れた。
 黒い髪が風になびく。黒い瞳は黒曜石のようだ。纏う衣装は、極上の絹。白一色の装束。
「めがみさま?」
 エスメラルダは『彼女』をそう評した。
 その途端、からからと『彼女』は笑う。
「違うわ。わたくしはマーデュリシィ。大祭司であり、ただの女よ」
「マーデュリシィ様!?」
 エスメラルダは驚いてぱちぱちと瞬く。半分夢の中に居て今現に戻ってきた感じである。
 マーデュリシィは優しく笑んだ。
「そんなに畏まらなくとも良いわ。わたくしも貴女もただの女である以上の価値など『此処』ではないの」
「……では質問は許されていますか?」
 マーデュリシィの言葉にエスメラルダは問う。大祭司は笑みを浮かべ頷く。
「どうぞ」
「『此処』は何処です?」
 この様な奇蹟に満ちた場所、天国としか思えない。それなのに、風になびく髪を押えようともせずに君臨しているマーデュリシィは女神ではないという。
「『此処』は世界の始まりの地。主のおわすアーニャの地と繋がる此の世で最も美しく清らかな地。お解り? 主の御前ではわたくしも貴女もただの女に過ぎないのよ」
 エスメラルダは瞠目した。
 主!? 
「そんなに肩に力を入れていると駄目よ、エスメラルダ」
「でも……でも!」
 主に此の世で最も近い場所。
 流石のエスメラルダも硬直した。
 だが、その時、ふわりと何かが肩に触れる。
 それは黒の中に緑の文様が入っている蝶々であった。
「どうやら、『此処』は貴女が好きなようね」
 ふんわりとマーデュリシィは笑んだ。
 エスメラルダは恐る恐る蝶々に手を伸ばす。
 不思議と、温もりを感じた。
 蝶々は伸ばされたエスメラルダの指にふわりと移る。
 エスメラルダは感動した。
 何だか嬉しくてたまらないのである。
「いい笑顔。その表情が良いわ。その表情にアシュレは魂抜かれたのね」
「ランカスター様の事をご存知でいらっしゃるのですか?」
 驚くエスメラルダにマーデュリシィは笑いながら言う。
「告白して、口説いて、押し倒して、……でもことごとく拒絶されたわ。エリファスに、緑の瞳をした娘が待っているのだと」
 エスメラルダの心臓がどくんと鳴った。
 ランカスター様はこのように美しい人よりわたくしをお選びになったというの?
 エスメラルダには俄には信じ難かった。
 きっと、冗談。
 他人が見たならエスメラルダとマーデュリシィの美貌は甲乙つけ難いというだろう。
 だが、エスメラルダはマーデュリシィこそ美しいと思った。
 器だけでなくその雰囲気、仕草、表情。
「本当よ。わたくし、嫉妬に狂ったわ。自分でも自分の制御がつかなかった。アシュレは言っていたわ。エスメラルダが自分を愛する事があってもそれは恋の情熱ではないだろう。家族の温もりであろう。それでも構わないから自分はエスメラルダを隣においておきたいのだと。愛しているのだと」
 エスメラルダの頬に朱が走った。
 ランカスターの言うとおりだったからだ。
 エスメラルダは父として兄としてランカスターを慕い、誰よりも愛していた。
 だが、恋ではなかった。
 決して。決して。
 恋。それは今、フランヴェルジュに寄せる激情のような、そんな気持ち。
「貴女がアシュレに恋していないことで益々わたくしは彼を手に入れたくなったわ。でもね……話が長くなりそうね。あそこに丁度良い大きさの石があるの、腰掛けましょう」
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