恋の花咲く事もある。
そのまま大気に溶けてしまいそうな雰囲気の彼女が心配になり、マリアはラゼリードの手袋を填めた左手を両手で包んだ。
 マリアはふと、その手に違和感を覚えた。
 手袋越しに金属らしき固い物が手に触れたのだ。
「ラゼリード様、指輪をなさってらっしゃいますか?」
 ラゼリードの表情が曇った。消えてなくなりそうな雰囲気は薄れたが、その代わりに泣きそうな顔をしている。
「違うの。わたくしが望んで指に填めたものではないの」
 ラゼリードはゆっくりと、片手で長手袋の留め金を上から順に外し始めた。マリアがそれを手伝い、途中から以降はマリアが手袋を脱がせた。
 現れたのは真紅の綱玉。それも未来を契る左手の薬指に。
「まぁ、見事な指輪……」
 マリアは感嘆の声を抑えられなかった。
 どんな男性がこの姫にこの指輪を贈ったのだろう。
 ラゼリードは目を閉じて首を左右に振る。
「わたくしの指輪はこれじゃない」
「ラゼリード様?」
「もうその指には指輪を填めたりしないと誓ったの。生まれて初めて頂いた指輪が…………壊れた時から。だから本当は身に付けていたくないのに、外れないの……」
 噛み締めた紅い唇から漏れたのは、悲痛な声だった。
 そのまま泣き出してしまいそうな声なのに、睫毛には涙の一滴も滲んではいない。
 泣かないのではなく、泣けないのかも知れない。
 マリアはラゼリードに指輪の事を問うべきではなかったのだと、今更ながら気付いた。
 どんな事情があるかは分からない。この姫の為に自分が何を出来るかも分からない。
 それでもマリアは彼女の気持ちを思い、両手でラゼリードの左手を取った。

 その時。

 かつかつかつ、と廊下から派手な足音が聞こえたかと思うと、不意に化粧室の扉がノックも無しに開いた。
「ハルモニア! 此処は女性用の化粧室だと何度言えば解る? 子供だとて……」
 ラゼリードはハッと顔を上げた。マリアも素早く背後を振り向く。
 化粧室の扉を開けたのは黒髪を肩まで伸ばし、手入れの行き届いた顎髭をうっすら蓄えた若く美しい青年だった。
 ラゼリードが、こぼれ落ちそうな程に目を見開く。
 ラゼリードとマリアの二人しか居なかった化粧室は、蜂の巣をつついた様な騒ぎとなった。
「エ、エルダナ様!?」
「きゃああああ! 国王陛下!!!?」
 慌てて立ち上がろうと腰を浮かせたラゼリードの膝から毛布がつるりと滑り落ちた。滑りの悪いパニエは上がったまま。
 脚は丸出しだ。
「きゃっ!」
 ラゼリードが真っ赤な顔でドレスの裾を引き下ろした。
 が、その裾が盥の温くなってきた湯に浸る。
「ラゼリード様! 裾が!」
 マリアがラゼリードの手を放して彼女のドレスの裾を託し上げる。
「駄目っ! エルダナ様が…! きゃあっ」
 慌てたラゼリードが足を滑らせ、椅子に倒れ込む。盥がひっくり返った。
 国王が背を向けて目を手で覆う。
「見てないよ、私は何も見ていない!」
 真っ赤な顔で呆然と椅子に座り込むラゼリードの耳に、言い訳する様な男性の声が聞こえた。
 きっと見られたに違いない。
「嘘おっしゃいませ!」
「嘘じゃない」
「陛下! 此処は女性用の化粧室ですのよ!」
「解っている! すまなかった。……いや、大変な失礼を……」
 だが国王エルダナは背を向けたまま謝ろうとも、退出はしなかった。
「陛下……ですから此処は殿方のいらっしゃる所では……」
「解っている。しかしハルモニアが此処に居るだろう?」
 マリアがえっ、と声を上げた。
「殿下は此処にはいらっしゃいませんが……」
「そんな筈は無い。確かに此処に……。……失礼」
「陛下!?」
 ラゼリードの側に派手な足音が近付いてくる。国王は躊躇いもなく濡れた床に跪き、ラゼリードの左手を恭しく取った。
 ラゼリードは驚きと羞恥のあまり、声も出ない。
 エルダナが指輪に目を落とし、顔から血の気を無くす。
「まさかこんな事になろうとはな……あやつめ……」
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