恋の花咲く事もある。

「おお、ラゼリード姫。これはなんと、お美しい!」
「ありがとう」
 ラゼリードが広間を歩くと、人の波がさっと割れた。口々に人々が声を掛ける。
 だが貴族達は近寄っては来ない。ひそひそと近くの者と会話を交わすのみ。
 ラゼリードは高慢に見える程顎を上げてゆっくりと、そして堂々と広間を横切る。
 普段は隠されているその左の胸元には、黒い翅を広げた蝶々の紋様。
 髪を結い上げて露わにした背中には、一対の黒い翼の紋様。
 これらは刺青の類ではなかった。ラゼリードが生まれつき持って生まれた『痣』である。
 自国の夜会でも滅多に見せないその『痣』を、今宵の彼女は初めて見せつけていた。
 そこへ誰かが話し掛けてくる。
「ラゼリード姫、どちらへおいでですか?」
「身体が火照っているので少し夜風に当たろうと思います」
「それなら私がお供致します」
「いえ、私が」
 我に返ったのか、青年貴族がわらわらと群がってきた。
 こういった事態を防ぐ為に露出の高いドレスを選び、異様さを全面に押し出したというのにあまり役には立たず、ラゼリードは内心で舌打ちした。
 だが、ラゼリードは苛立ちを全く見せずににっこりと微笑んで言った。
「いえ、一人で大丈夫です。そんなに大勢の方にお付き合い頂きましたら、身体の火照りが取れませんもの」
「ですがエスコートも無しにお一人で行かせてはルクラァン貴族の名折れ。この私、パンドーラ公ジョルジオがお供致しましょう。他の方々も文句はありますまい」
 ただ一人、ラゼリードの予防策を物ともしない青年貴族が現れた。
 彼は黄色い上着を着ていて、一片のくすみも無い金髪にきらきら光る深緑の瞳、そこそこに整った顔立ちをしている。彼はその無駄に光って見える緑の瞳で周囲の人々を眺めやり、最後にニヤリと笑ってみせた。
 ラゼリードは彼の悪趣味な黄色い上着も相俟って、まるで蛇の様だと思った。
「では、姫。参りましょう」
 ようやくラゼリードに向き合ったパンドーラ公は、強引に彼女を肩を抱いた。ムッとしたラゼリードが思わず彼の手を引き剥がそうとすると、不意に彼女達の前に出来ていた人垣がサッと割れた。
「ラゼリード姫。如何お過ごしですかな?」
「エルダナ国王陛下!」
 パンドーラ公が慌ててラゼリードの肩から手を離し、深々と頭を垂れる最高礼を取った。ラゼリードもドレスの裾を両手で広げてお辞儀をする。
 エルダナは清々しい程にパンドーラ公を無視して、ラゼリードに話し掛けた。
「今宵のルクラァンは夜風が心地良いですよ。風にご縁があるという事で、ご一緒に涼風を愛でませぬか? この春以来お会いしていない貴女のお父上、セオドラ殿のお話もお伺いしたい。お父上のお加減は如何かな?」
「今のカテュリアは過ごしやすい気候なので特に変わりはありませんわ」
 ラゼリードは、エルダナが差し出した手に手を重ね、導かれるままにバルコニーへ向かった。
 小声でエルダナがラゼリードに囁く。
「不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。アレは先々代の御代に我が王家より王女が降嫁した家の者。歴史の浅い家系とはいえ、王家とは縁戚に当たります。その為、若干調子に乗っている様子。……後で躾直しておきます」
 ラゼリードはエルダナの最後の一言に薄ら寒い物を覚えたが、敢えて何も言わずにおいた。
 硝子の扉を潜り抜け、バルコニーへ出ると確かに夜風が心地良かった。エルダナの手を離れてバルコニーの手摺りに近寄る。
 ラゼリードは自分が持つ風の魔力と同じ力を大気に感じ、大きく深呼吸した。胸一杯に清い夜風を吸い込むと、怒りや煩わしさといった穢れが落ちていく様に感じて、自然に口元が綻んだ。
 彼女の背後ではエルダナが慎重な手つきで硝子扉を閉めていた。彼はラゼリードに近寄りながら小さく笑い声を上げる。
「気分が晴れた様ですね。貴女はやはり籠もった空気の中に居るべきではない。風は流れてこそ風なのだから」
 結い上げていない前髪が風に揺られるのを片手で押さえながら、ラゼリードは振り向いた。沈んだ色が赤と紫の瞳に浮かぶ。
「……暫し前に、似た言葉を聞きました。貴方様も風とはそうあるべきだと思われているのですね」
「思うも何もそれは摂理ですよ。動かなければ風は風ではなく、空気です。火はもっと顕著です。燃えていなければそこに存在すらしない。だから私の心はいつも燃えています。美しい貴女を目の前にすると、より一層激しく燃え上がる様だ」
「まあ」
 真面目な顔をしているエルダナがおかしくて、ラゼリードはくすくすと笑った。エルダナは少し首を傾けたが、顎に生えた髭を手で撫でながら少し微笑んだ。
「さて、冗談はその辺にして。聞かせて頂きましょうか。その指輪は何処で手に入れられた物です?」
 エルダナがラゼリードの左手を手で持ち上げると、空いた片手が彼女の左の二の腕に触れた。
 その瞬間、長手袋のラインに沿って爪程の間隔を置いて配置されている留め金が全て外れ、手袋が手首から垂れ下がった。
 目にも止まらぬ早業に、ラゼリードが目を剥く。
 その間にも、エルダナは彼女の手首を優しく掴み、手袋を剥ぎ取ってしまった。
 綱玉の嵌った指輪が薬指に現れる。
 エルダナが顔から穏やかな笑みを消した。火精を目の前にしていて、自身も風の精。寒さなど感じない筈のラゼリードが、その表情一つで背中に冷たいものを感じて鳥肌を立てた。
「その指輪は、真実我が息子ハルモニアの指輪です」
 ラゼリードの瞳がこれ以上ないと言う程、驚愕に見開かれた。
「私が手ずから彫金し、魔法を与えた指輪ですから間違いありません。その魔法の為、私とハルモニア以外は指から抜く事も叶いませぬ。……指を切り落としさえしなければ」
「そんな……」
 『若』と呼ばれていたあの少年が。
 ルクラァンの第一王子──ハルモニア。
 王宮でまみえる筈の相手と、随分とおかしな出逢い方をしたものだ。
 ラゼリードは呆然とエルダナの言葉を聞いていた。
「答えられよ、ラゼリード姫。返答によっては貴女をカテュリアへ強制送還しなければなりません」
 彼女は息を飲んだ。
「それは困ります! わたくしは父より密命を受けてこの地に赴いたのです!」
< 13 / 25 >

この作品をシェア

pagetop