恋の花咲く事もある。
果物屋の女主人
 呆気に取られたラゼリードに、エルダナが首を傾げた。彼はまた手で顎髭を弄っている。本当に髭を弄るのが癖らしい。
「エカミナをご存知なのですか?」
「……昨日の昼、彼女からうっかり果物を買って……そのまま話し込みました」
 ラゼリードが少しばかり、げんなりとした表情になる。

 あの時程、周囲の見知らぬ人間に視線で助けを請うた事はない。(しかも救いの手は差し伸べられなかった)
 侍従のヨルデンには密命を受けた事自体を伏せてあった。なので、エルダナとの謁見が済むなり『お忍びで遊びに行く』と言い張って王宮を抜け出し、「お待ち下さい! せめて、せめて僕だけでもお連れ下さい!」と、泣き出さんばかりに追いすがる彼を、ラゼリードは容赦なく撒いた。
 そしてそれも……深く後悔した。
 撒いた所為でヨルデンの助けが無い事も、子犬の様にまとわり付くヨルデンを置いてとんずらこいた事も。
 ──雰囲気こそ子犬だが、彼は立派な18歳の青年だ──ヨルデンの名誉の為に付け足しておく。

「おやおや、それは。大変だったでしょう。彼女は美人だし、愛情深く、腕も立つし頭の回転も早いのですが、唯一の欠点はお喋りが大の大好きだという事だ。ちなみにその点では私と非常に気が合います」
 それはそうだろう。
 ラゼリードは、エルダナとエカミナが嵐の様に激しい勢いで談笑している姿を想像しようとしたが、エカミナの姿形は朧気にしか思い出せなかった。スカートとエプロン、尼僧ばりに髪を覆う長い三角巾を身に付けていた気はする。だが顔が分からない。
 美人だっただろうか? それすらも覚えていない。
 それもその筈、彼は己の色違いの瞳を見られまいと目を逸らし続けていたのだから。
「彼女は何者なのですか?」
「エカミナは2年前まで私直属の密偵でした。彼女は一昨年、結婚退職したのですが、この度情報を持ち込んだのが彼女だった為、現在は一時雇いとなっております」
 そんなに大層な素性の持ち主だったとは。しかも『昔はラゼリードやハルモニアの様な顔立ちだった夫』と新婚らしい。
「流石はルクラァン。人の国では及びもつかない事柄で溢れ返っていますね」
「は?」
 エルダナが不思議そうに間抜けな声を上げた。
「いえ、なんでも……」
 ラゼリードはエルダナから目を逸らした。そもそも、この人物からして一筋縄ではいかないのだ。
「エカミナの事は彼女自身に訊いてみなさい。今渡した資料も、きっとエカミナの手元にある物の方が新しいと思うよ。私から聞くよりもエカミナに訊いた方が早い。さぁ、行っておいで」
「い、いってきます……」
 立ち上がったエルダナが、まるで我が子を送り出す様に、エルダナはラゼリードの頭をクシャリと撫でた。赤くなった頬をまた指摘されるかと思ったが、彼が何も言わないのでラゼリードも立ち上がり、荷物に先程の紙の束をしまい、肩から下げる。
 外套をその上から被ると、彼はエルダナに向かって頭を下げ、そして窓辺に近寄る。重量を感じさせない猫の様な仕草で窓枠に飛び乗ると、彼は振り返りもせずに窓から飛び降りた。
「あ。此処は3階……」
 遅ればせながらその事に気付いたエルダナが、ひょい、と窓から身を乗り出すと、無事に着地したらしいラゼリードが、まさしく風の様な速さで庭園を走っていた。
 あっという間に庭園を突っ切り、大人の背丈3人分の高さがある塀の上部に、人らしからぬ跳躍力──風の魔法だろう──で飛びつき、ひらりと外套を翻して塀の向こうに消えた。
 エルダナはそれを見て微笑む。
「流石、風精。見事だ。3階だとか、塀があるとか……そんな心配無用だったね」
 軽いノックの音がした。
「どうぞ」
 エルダナが窓枠に肘をついたまま、扉の方に顔だけ向けて応えた。
 部屋の主の入れ替わりにも気付かずヨルデンが茶器を携えて入ってくる。
「ラゼリード様、お茶をお持ちしま…………」
 ヨルデンが顔を上げる。ひらひらと片手を振るエルダナと目が合った。
「えーーーーーっ!!!? ル、ルクラァン国王陛下!? ラゼリード様? ラゼリード様!?」
 慌てふためくヨルデンの様子に、エルダナが腹を抱えて爆笑した。彼は笑いながら窓の外を指差す。
「君の主は……あっち。君、気付くのが少し遅いよ。ああ、折角だから代わりに私がお茶を頂いて帰ろうか」
 ヨルデンは自分の紅茶の腕の無さを心底呪った。
 ヨルデンがその後、自国に帰ってから必死で紅茶を淹れる修行をし、遂には城一番の紅茶使いとなったのは余談だ。

◆◆◆

「これで全部か」
少年は小さく呟くと、足元の血溜りを見回した。
横たわる屍、屍、屍。
そのどれもが刀傷によるものだった。
そして少年の手には血に濡れた剣が握られている。……彼の仕業なのは一目瞭然だった。
彼は己の剣で手近にあった木の柱に斬りつけると、その手ごたえに低く唸った。
「一回で随分なまくらになるんだな。研ぎに出さないと。アレクに頼むか」
少年は血払いをした剣を腰の鞘に収めると、両手を胸の前で水でも掬う様に椀の形にする。
だが、彼が望んだものは水ではなかった。
「火よ」
少年の手の中で炎がぽっと点った。

◆◆◆
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