妖狐の姫君
男は長い前髪を指先ではらう。
仕草が浮世離れというのか。
安定した心にドキリとさせる。
「それはどうしたら行けるのですか」
「なにも致しません。あなたが望めば行ける世界です」
「望んでいます。すぐにでも飛んでいきたいです」
この世界から私という存在が消えるのならば。
私がここにいる理由など消えてしまったのだから。
「本当に?」
「はい。どうか私をそこに」
「泣いて喚いても知りませんよ。帰ってこれないですよ」
「帰る理由は何一つ残ってません」
「では」
男は満足そうに私に近づいて左肩を強く押した。
「えっ?」
予想外のことについていけなかった私の体は押された方向へ倒れていく。
あれ、どうなってるの?
体には何も感じなくて目に見えたのはスローモーションのように男と柵の一部が消えているのが見えた。
私は背中から海に放り出されたのだ。
ばしゃんと音をたてて浮力に逆らって体が沈んでいく。
――‐‐騙されたのか。
脳裏によぎる思いは不振を募らせたけれど、そんなおいしい世界など存在しなかったのだ。
私があまりに思慮の浅い人間で騙されやすい性格がここであらわれて命を落とすことになるとは。
なーに。
最初からここに来た理由がそれだから本望だったということだ。
この世界に悔いはない。
あるとすればあの男は一体――‐‐
何物だったんだろう。
もう塩の香りは消えていて私はあらがう事なく目を閉じた。
黒髪の男は暗闇に消えてくように煙となって消え、私の体はまばゆい光の中に消えていった。