夏虫
あたしの耳に朝比奈の柔らかい髪がくすぐったい。

そして朝比奈の二回目の問いかけに今度は小さく頷いた。消えそうな自分の声が遠くから聞こえるみたいだったけど、朝比奈に言った。


「あのね、ふたつだけお願いあるんだけどいいかな」
朝比奈は何、と優しい声で答えた。


「別れたいときはちゃんと言うこと、それと別れた後もせめて普通のクラスメートで接してほしい」


朝比奈はあたしを強く抱きしめる。その強さは激しく優しいものだった。見た目には痩身なのに、180cmの身体は鍛えられていて、肩幅も広かった。

「今からそんなこと言うなよ。」

あたしは、何も言えなかった。彼の声がすこし震えていたとしても、返す言葉がなかった。

「過去に何かあったの?」
しばし沈黙の後、ぽつりと訊かれた。

痛いところを突かれた。痛い。顔をもたげようとする過去を無理矢理、こころの奥の方に沈める。

我慢するのは得意だから、それでも顔を上げて、目を合わせたら見抜かれるか言いたくなってしまう気がした。

「…、ないとは言えない」
朝比奈は黙って抱きしめる力を強くした。

朝比奈は、理由とか過去を話しても私を強く抱き止めてくれる予感がした。でもまだ確信は当然なかった。


あの後、朝比奈と保健室でサボりのカモフラージュに寄ってから、教室に帰った。6限に出たけど、あまり記憶に残らないような授業だった。

授業のあとのSHRで席替えをした。あたしは、意外に教卓からあまり見えない壁際の一番端の列の前から三番目。


こういうくじ運は昔からよかったなとか思った。朝比奈はあたしの左隣の席だった。


朝比奈と付き合うといっても、一緒に帰るのは迷うところだ。同じ路線なんだし、どうせ一緒になる。まだ、まったくもって実感がわかない。


朝比奈と付き合うといっても、どんな付き合いになるのか想像できないなぁ。大体、朝比奈は付き合ったことあんのかな。


いつも女は誰か彼かいるけど。ま、なるようになることを祈るだけなんだけどね、今んところ。

そうして思い込むことでしか、気を静める術を思い付かなかった。



迷っていたら、隣の席なのに気を使ってくれてメールをくれた。





『裏門から出た公園のとこで待ち合わせ。』
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