スイートなメモリー
非常口のドアが開いた音の後、階段を上るヒールの音が聞こえる。
「三枝君じゃないの」
予想どおりに驚いた顔を見ることができて、俺は満足した。
前崎係長はそれから何も言わずにジャケットのポケットからメンソールのタバコを取り出して、ライターも出す。
そして、そのライターを取り落とした。
非常階段の隙間を、甲高い音を立ててプラスチックの固まりが落ちてゆく。
「あー……」
駆け下りて行こうとするのを引き止める。
「焦って降りたら、危ないですよ」
彼女は一瞬俺を振り返って、躊躇するそぶりを見せたが、また怒った顔をして階段を降りて行く。
からんからんからん。
ライターの次はローヒールの黒いパンプスが片方、非常階段を数段転がり落ちていった。
前崎係長が戸惑って立ち止まった隙をついて、俺は彼女よりも先に非常階段を降りて、パンプスを拾う。
履きやすいと思われた位置にパンプスを置いてから見上げたところ、前崎係長は真っ赤な顔をして、うつむいていた。


あれ? 
俺の予想ではここでは靴を履いたら怒ったまますぐに居なくなると思ったんだけど……違うのかしら。
そっと靴を履き直して、彼女はつぶやいた。
「なんで……」
「なんですか?」
「なんでこんな格好わるいところばっかり見られるのかしら!」
いやあの。それ、俺も聞きたいんですよ。
どうしてあなた普段しっかりしてるように見えるのに、人目の少ないところでは色々うっかりしてるんですか。
狙ってやってるんだったら相当なもんだぜ。

なんと声をかけたらいいのかわからないでいるうちに、前崎係長は結局タバコは吸わずに、いなくなってしまった。
いろいろとチャンスを逃した気がする!
でもなんか可愛かったから結果オーライ?
いやけどひとつも前進してない気もするの!
どうしたらいいかなあと悩みながら、俺はタバコに火をつけて、久しぶりの感覚に若干頭をぼんやりさせる。
結論。
とりあえずライターを拾いに行って、あとで渡しに行こう。
渡しに行くチャンスがあれば、なにか話ができるかもしれない。
< 24 / 130 >

この作品をシェア

pagetop