渇望の鬼、欺く狐
 体をビリビリと這う電流。

 それは、ある一定の場所を越えてしまえば、すぐに消失を辿った。

 周囲を見渡してみても、至って何の変哲もない森林。

 だけど、何かが違う。

 自分が目に映してきた景色よりも。

 歩き続けた空間よりも。

 明らかな違いが、その「何か」から感じられる。

 
 やがて狐の耳に届くは、地面を踏み進める音。

 か細くも上品なその音に、狐は視線を上げて。

 恐怖の出所と、芳しい香りの出所が一致していた事を知った。

 藍色の髪は、見惚れてしまう程に美しかった。

 無気力さを醸す表情と、その目の奥に微かに映る物憂げな色が、美しさを際立てているようで。


 あんなにも、生きようと強く心に決めたにも関らず。

 狐は足を踏み出してしまったのだ。

 目の前に立つ存在に、殺されてしまう事を承知で。

 殺されるその一瞬の隙を突いてでも、その香りを近くで嗅いでみたくて。


 距離を詰めた狐は、深く息を吸い込んだ。

 鼻腔に入り込んだ香りは、狐の脳にまで届いて。

 まるで酔ったかのように、クラクラと頭がふらつきそうになる。

 きっと次の瞬間には、自分は死んでいるのだろうと、狐は覚悟を決めていた。


 どうしてかはわからない。

 ただ、幸せに思った。

 もう十分だと思った。


 本能が強く求めた匂いを、自分の鼻に届けられた事。

 それは、張り詰めていた狐の緊張を、緩めてしまったのかもしれなかった。
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