あめかんむり

なんのことはない。
なんのことはない。

私は自分に暗示をかけ、高い位置から垂直に筆を下ろす。

筆先が旅立ちの一歩を踏み出そうとした、その時…。

やっぱりダメ。

私は全身の力を抜き、筆を脇に置いた。


見るともなしに、窓の外を見る。


葉が揺れている。
憎らしいくらいに緑の葉。

その緑は眩しいのに、どうやら雨粒を跳ね返す力もないらしい。

雨音は私の心をかき乱す。

天から降ってくる無数の音が、私の字を滲ませるのだ。墨はとめどなく広がり、染み、膨らみ、やがて全てが闇と化す。

[雨]

空からの水滴を表した文字だ。

それならばいっそ、
滴り落ちればいいのか。

私は気を撮り直し、墨を突く。

[雨]の一画目をやや右上がりに、しっかりとめることなく、二画目はしなやかに、四つの点を、まさに雨のように…。

半紙上半分に降った雨を、一体どう様変わりさせようか。

この、私の一筆で。

一画で世界を変えることができる醍醐味。

思いを隠す[雲]にしようか。
想いをごまかす[霧]にしようか。

自分で作り上げた半分の世界を眺めていると、スッと筆が伸びてきた。

よく見覚えのある、
血管が浮き出た腕。

誰よりも太い筆で、[ヨ]と書かれた途端、私の中で、季節外れの[雪]が降った。


もう一度、
[雨]と書く。


もちろん、上半分の世界に。


だって、下はあなたの世界。
あなたの一筆で、私は変わる…。


はにかんだ師範代は、力強い筆使いで、田んぼの[田]を書いた時、文字通り、私の胸に[雷]が落ちる。

新しい白に、続けざまに世界の始まりを書くと、終わりに結ばれた文字は[需]。


[需]


つい人差し指の爪を甘噛みしながら、その文字を見る。見つめる。眺める。

無意識に筆を取っていた。

[需]の字の左の世界が、私を待っていたから…。


一つ、
二つ、

三つ…。


たった三つの点で、世界は[濡]れた。

やや歪で艶やかな[濡]が文鎮の重みから解き放たれると、師範代は紛うことなき[雨]を書き上げた。


それは新しい、
まだ見ぬ地図。


それを秘境にしなくては。

私は、大きな一画を真横に引いた。
師範代の雨を受け止める一画。


これは雨なの。


次に、真下に支える柱を。


これは雨。


最後の点。


雨なの。


私の。


[雫]









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