身を焦がすような思いをあなたに
受け継がれる命
「え?」
朱理は、あまりにも早くその日が来たことに、驚いてしまった。
「だから、赤ん坊が生まれた」
さらっと告げる青英のせいで、余計に朱理は混乱する気がした。
「美砂の?」
「他に妊婦がいたか?」
「いない…」
しっかりと現実に起きたことだと認識した瞬間、朱理は走り出していた。息を切らしながら、美砂の部屋の前まで来たのはいいものの、どうしたらいいのかわからずに途方に暮れているところへ、悠然と青英が姿を現した。
「なんでそんなに落ち着いてるの」
「お前は何でそんなに慌ててるんだ」
「だって、初めて見るんだもの」
「は?」
「赤ちゃんを見るのが初めてなの。それも、青英と美砂の子どもだなんて、奇跡みたい」
「……」
頬を上気させて、目を輝かせている朱理に、青英はわずかに頬を緩めると、美砂の部屋の扉を開けた。
さっさと青英が中に入ってしまい、朱理は迷ったけれど、動けずにいると、そのまま扉はバタンと閉まってしまった。
「何をやってるんだ、お前は」
迷惑顔で、青英が姿を見せた。
「いや、私が入ると、良くないかもしれないと思って」
「なんだ、何か燃やすつもりか」
「そんなつもりはない!」
「じゃあ、入れ」
「いいの?」
朱理がそう言うと、青英の口からではなく、部屋の奥から、「いいわよ」と久しぶりに聞く優しい声が聞こえて、朱理はあっさりと迷いを忘れた。その足は、一歩前に踏み出したら、あとは駆け寄るようになった。
「美砂!」
美砂のベッドにひざまずいて、彼女の手を取る朱理の目は、再び輝いている。
「おめでとう!」
にっこりとほほ笑む朱理に、美砂はかすかに涙ぐんだ。美砂には、グローブ越しの朱理の手は、前より小さく感じられたから。
結局、朱理は、ナンネンソウで身を覆うスタイルに逆戻りしているし、なんだか痩せているからだ。
「ありがとう」
一方の朱理もまた、胸が不安でざわついた。美砂の、顔色。はっきりと、青白いからだ。
出産とは、それほど、体の負担になる、大変なことなんだろう。それにしても、昨日の夜生まれたのだと、さっき聞かされたけれど、一晩経っても、その疲れは和らがないんだろうか。
そのとき、あっ、あっ、と聞き慣れない声がした。と思ったら、あっという間におああああ、おああああ、と震えるような泣き声が部屋に響く。
朱理は、文字通り、目を奪われた。
赤子に。
乳母がベビーベッドから抱き起きしたのは、顔を真っ赤にして泣く小さな生き物。
「あかちゃん」
朱理は、驚きと感動で胸がいっぱいになって、それが納まりきれなくなって、目から滴になって出て来たのだと思った。
「抱いてみる?」
美砂がそう言ったのは、聞き間違いだろうと思い、朱理は返事もしなかった。ところが、くいっとワンピースをひっぱられて、視線を下げると、美砂ははっきりと自分を見て、もう一度こう言った。
「わたくしの息子よ。抱いてみてくれる?」
そう言うと、乳母がびくりと肩を強張らせたのが、朱理にはわかったけれど。「抱いてみたい」という気持ちには抗えなかった。
「グローブの上からにするから」
乳母も、美砂も、青英も、そして何より自分も、安心させようと思って、朱理はそう呟いた。
陽輔が、朱理の誕生日に持って来たこの繊維は、確かに従来のものとは違うらしく、力が強くなった朱理でも、まだ焦がしたことがないから。
「では、両腕を出してください」
諦めたらしい乳母が細かに指示を出してくれて、なんとか赤ん坊を抱く格好をした朱理の腕の中に、そっとその子が入れられた。
「あったかい」
朱理は、自然に顔に笑みが広がることにも、気がつかないくらいに、赤ん坊の肌触りや、動きに夢中になった。
「小さい。でも、重い。よく動く。目が綺麗。ああ、可愛い」
思わず、赤子の額に、頬を寄せていた。
「可愛い」
何度言っても足りない気がして、朱理はもう一度そう呟いた。
朱理の胸でもぞもぞしていた赤子が、ぱくぱく口を開け閉めしながら、「あっ、あっ」と再び泣きだしそうな声を上げ出したから、朱理はおろおろした。
そんなふたりの様子を見て、美砂と乳母は声をあげて笑う。
「ど、どうしたらいい?」
珍しく困って、迷っている朱理の表情が、可愛くて、美砂は目を細めた。
「ここからは、わたくしの出番ね。その子はね、おっぱいを探してるの」
「へえ!」
感心する朱理の腕から、乳母は、赤ん坊を抱きあげて、美砂の隣に静かに下ろした。躊躇なく、美砂がネグリジェの胸元を開いて、綺麗に膨らんだ乳房を出したかと思うと、先を赤ん坊にくわえさせたから、朱理はまた感動した。
「美砂、お母さんになったんだね」
必死に吸いつく赤ん坊にも、感動する。
「あなたは幸せだね。お母さんのおっぱいが飲めて」
朱理は、自分が産まれたとき、死んでしまった母はもとより、誰も、直接母乳を飲ませることができなくて、大変だったと陽輔から聞いたことがある。
「そういえば、この子は、男の子なの?女の子なの?ああ、息子だって、さっき美砂が言ってたのに、もう忘れてた。それから、名前は?」
一瞬、朱理の出生を思い、部屋の空気は、静かに暗くなったのだが、本人はさほど気にも留めずに、赤ん坊のことばかり考えているらしい。
「駄目だ、私、興奮状態みたい。このままじゃあ、美砂に無理をさせそうだから、今日はこの辺にして帰ることにする」
一気にそう言うと、最後にもう一度、朱理は美砂の手をきゅっと握ってにっこり笑った。
「おめでとう、美砂。大切な赤ちゃんを抱かせてくれてありがとう。私、美砂のことが大好き。また、会いに来るね」
美砂も、ゆるゆると頬がゆるんで、朱理に頬笑みを返した。
「わたくしも、朱理のことが大好きよ」
朱理は、胸がさらに熱くなった気がして、頬まで熱くなった気がして、落ち着きなく自分の濡れた顔を拭いながら、部屋に戻ったのだった。
だから、朱理は、悪い冗談じゃないかと、思った。思いこもうと、した。
「私をからかってるの?」
朱理は、一縷の望みをかけて、そう言ってみる。それでも、青英は沈黙を返すだけだった。
本当のことなんだ。
それが直感的にはわかったし、理解したいと思うけれど、体がそれを拒否するかのようだ。なぜか固くつぶった目が開けられない。握りしめた拳を開けない。
「顔を見に行くなら、今晩の内だ。明日の朝には埋葬する」
今日は、心の中でなだめたりすかしたりしないと、朱理の足は、なかなか前へ進まない。ようやくたどり着いた部屋の中は、怖いくらいにしんと静まり返っていた。
近付いたベッドに、数日前の温かみや賑やかさはない。まさか、あれが最期になろうとは。
「早い」
ようやく、乾いて張り付いたようだった朱理の喉から、声が出た。
「早すぎるよ、美砂」
後はもう、言葉にならなかった。縋りついて、頬を寄せた彼女の体は、すでに冷たくて、堅い。
私の、初めての女友達。姉の様な、妹の様な、先生の様な、母親の様な、存在。朱理は、ぐるぐると目眩がしそうな回転をする頭の中で、美砂について、考える。
美砂。
美砂。
美砂。
最後には、こちらに微笑みかけてくる、記憶の中の美砂に呼びかけることしかできなくなって、朱理は絶望した。
いつの間にか、そのまま眠ってしまったらしい。美砂の部屋のソファで、朱理はふうっと息をついて、目を覚ました。
今の今まで、息が止まっていたみたいに苦しくて、静かに深く、深呼吸をしている。
「お前は、立派に務めを果たしてくれた」
静かな声が、微かに耳に届き、朱理はとっさに息をひそめた。
「感謝、してる」
そっと腫れた目を開くと、美砂のベッドの傍らに、青英が立っているのが見えた。
「でも、男の子を産めば、死んでもいいとは言っていない。お前だって、一緒にこの国を見守りたいと、言っていたはずだ」
わずかに、彼の声が震えていることに気がついて、朱理は自分の胸も震えているような錯覚に陥った。
「俺のせい、だろうか」
自信のない疑問形の言葉。青英が、皮肉ではなくて、疑問形を使うのが、痛々しく感じられて、朱理は無意識のうちに自分の胸元をぎゅっと握りしめている。
「神の声は、俺とお前のことを、示唆していたのかもしれないのに」
青英のその言葉で、朱理は初めて、あの日聞いた神の声のことを、初めて思い出した。
《水は土を育てることを、忘れるな。近付き過ぎてはならぬ》のくだりは、自分には全く関係がないことだと判断したのか、呆然自失の状態だったせいか、全く記憶に残っていないと思われた。
でも、青英の言葉を反芻していると、神の声がそう告げた記憶が戻ってくる。朱理から見れば、それが、美砂の死期が早まると暗示しているようにも思えないのに。
朱理は、暗くて表情がうかがえないものの、声からして弱っている様子の青英が、痛々しくて、たまらなくて、どうすればいいのかわからなかった。
青英が、そっと身をかがめたと思うと、美砂の額に口づけた。
それを見た瞬間、朱理は頭か顔かよくわからないところが、かっと熱くなったと感じた。
『青英も、美砂のことが好きだから、赤ちゃんができて、離婚もしないんでしょう』と、ほんの数日前に、自分自身が言った声が、耳の奥で響いている。
私が死ねばよかったのに。
自分でもよくわからない、混乱した感情の中で、ひとつだけ、わかりやすくはっきりと浮かんでくるのは、その思い。
美砂じゃなくて、私が死ねばよかった。
どうして神は、世界を破滅に追いやる可能性のある私ではなく、美砂を連れて行ってしまったんだろう。
青英の「お荷物」じゃなくて、「同士」を奪ったんだろう。
美砂を失って、この城は静まり返っている、と朱理は思う。
美砂の声が大きいと感じたこともないし、彼女の行動が活発だと思ったこともないのに、その存在感は、やはり特別だったのだろう。
いつも穏やかな微笑みを浮かべた美しい人。心が強い人。
この沈んだ城の中で、朱理は、自室に閉じこもり、ぼんやりと本を読む。
美砂を思い、彼女を失った青英と、赤ん坊のことを思い、最後には自分と母親のことまで考えながら。
世の中が、色彩を失ったように感じていた。
「何を、考えてる?」
朱理がようやく我に返ると、すでに外は真っ暗で、いつものように青英がノックもなく自分の部屋に入ってくるところだった。
手元には本を開いたままの恰好で、ソファに腰掛けているけれど、こんな暗い中で本を読んでいるはずもないと、さすがにわかったのだろう。
「母親の、ことを」
朱理は、思わずそう呟いていた。
「へえ?」
美砂が死んでから、青英はますます口数が少なくなったと、朱理は思う。だから、珍しく話しかけてくる青英に、つい答えてしまったのだった。
「あー、うん、青英のお母さんの言う通り、私が殺したようなものだから。ときどき、思い出して謝ってみてる」
「はっ」
「笑うようなところだった?」
ムッとする朱理を前に、青英は、久しぶりに浮かべた笑みを消しながら、ソファの反対側の端に座った。
「お前が母親に謝るって変だろうが」
「どうして」
「お前の母親は、父親との間に子どもが欲しいから、お前を産んだんだろ。自己責任だ」
「は?」
「だから、自分が原因で死んだんだろ」
「は!?」
「他人の言葉に惑わされるんじゃねえよ。自分の頭で考えろ」
朱理はぽかんとして、青英を見つめるだけだ。そんなこと、考えたこともなかったし、誰も彼も、朱理を母親を焼き殺した呪われた赤子としか表現しなかったから。
「女王は、まず自分が息子を産んで、その妻がまた息子を産んで、この国を無事に継いでいくことが、もっとも大切だと信じてるからな。それを脅かす可能性のあるものは徹底的に排除する。だから、あれに言われたことをいちいち真に受けるなよ」
誰のことを言っているのか、しばらくの間、朱理は考えなければならなかった。
「…青英のお母さんのこと?」
謁見した時に、『お前、自分の母親を呪い殺したのであろう?』と憎しみをこめた目で自分を睨みながら、女王はそう言ったはずだ。
「お母さんって面じゃねえだろ、あれは」
「いや、綺麗だけどね、作りは」
「お前もはっきりと『作りは』とか言ってるじゃねえか」
「…ごめんなさい。まだ怖い顔しか見たことないから」
「いつもあんなもんだ」
「そっか」
でも、生きてるだけ、いいよね、と朱理は小さく呟いた。青英に聞えたかどうかはわからない。
「まあ、でも、女王に言われたから、そう思ってるわけじゃない。いつの間にか、そう刷り込まれてたからだと思う」
現に、言われたときは激しい怒りに駆られたけれど、今は全く思い出したりすることもないのだ。
青英は、朱理の答えを聞いて、わずかに首をかしげたようだった。
「父親のことは、考えないのか。あの、異常に過保護な」
「過保護?そんなふうに思ったことは、ないけど。お父さんのことを考えると、辛いから、あんまり考えない」
「なんでだ」
「大切なお母さんを殺したから。その後も、私を育てるのにものすごく苦労してるから」
「そう言ったのか?」
「ん?」
「父親がそう言ったのかよ?」
「いや…、わざわざそんな意地悪言わないでしょう」
「お前の思い込みじゃねえの?」
「は?」
「お前の父親、お前がかわいくて仕方ねえって顔しかしてねえけど」
「はあ!?」
どこをどう見たらそうなるんだろうって思うけれど。
「常に、お前に関心を持ってる。風汰みたいに周りをうろちょろしないけど、いつもお前のことを考えてる感じがする」
「そう…かなあ。お父さんってそういうものなの?」
「いや?王は違うぞ」
「王って…、青英のお父さんだね」
「あれは、全てに無関心。自由がないままで歳をとったら、ああいうみっともない年寄りになる。ぞっとするな」
心底嫌そうな顔で、青英はそう言い捨てた。
「自由」
朱理は、呟いてみた。自由がないと、熱にうなされながら、青英がうわ言を言っていた場面をありありと思いだした。
「このままあんなじじいになるのかと思うと、マジでイラつく」
ああ、青英は、自由がない生き方をこのまま続けた将来の姿として、王を捉えているのだと、朱理も気がついた。
確かに、ただ1度だけ謁見した時の王は、無気力かつ無関心に見えた。王らしい威厳はあるものの、その内面が見えないくらい空っぽに思えた。
激しい感情が渦巻いているように見える女王とは、対照的だったっけ。朱理は、ふたりの姿を思い出してみるけれど、いまだに、あのふたりと青英が親子だとは思えなかった。
似ていない、わけではない。
母親の上品な美しさを、父親の冷たくも雄々しい雰囲気を、しっかりと青英は受け継いでいる。
だけど、3人がバラバラのような印象。誰も、誰かと、繋がっていない。そこに思い至って、朱理はもう、考えることをやめた。
「そんな両親でも、生きてるだけ、いいか?」
青英が、そう問いかけて、隣から顔を覗き込んだから、朱理ははっとした。
さっき呟いた一言は、声が小さくて聞えなかった訳じゃなかったんだ。否定する気持ちを持っているから、沈黙を貫いていただけだと、今初めて気がついた。
「そんな、気がする」
生まれつき背負うものが大きい人には、親が生きてさえいればいいという、自分の考えはなじまないのかもしれない。朱理は、初めてそう思った。
立場の異なる青英の視点を借りると、朱理は、父と母の姿も、自分の目から見るときとは、少し違って見えてきて、不思議に思えた。
「大丈夫か」
青英は、思わず口から出た自分の台詞に、舌打ちしたい思いだったけれど、なんとかそれは我慢した。
「ん?なにが」
「何がじゃねえ。調子悪いんだろ。早く寝ろよ」
「よくわかるね。お父さんみたい」
ちっ。次は、舌打ちも我慢できなかったらしく、青英は、ため息を吐いた。
朱理は、青英の舌打ちにもため息にもすっかり慣れたので、気にすることなく素直にベッドに向かう。
「おっさんと一緒にするな。とにかく、もうちょっとなんか食え。もっと小さくなるぞ」
「え?背って縮むの?」
「…バカだな、お前」
「なんだ、縮まないのか」
「ほんと、バカだ」
「…私はそんなにバカなの?」
「珍しくいつまでも、落ち込んでんじゃねえよ、バカ。美砂はあれが寿命だ。よく持った」
朱理は、声が出なくなった。
城の中の景色は色を失って、食べ物は味を失くし、眠りは悪夢をみせる。全ては、美砂が死んだ日からだ。
ひどい汗で、目を覚ました時、ときどき、青英と目が合うことがある。朱理は、そんなときですら、彼が何も言わなかったから、自分の苦しみは、外に漏れていないと思っていた。
もしかしたら、そんな時間に目覚めている青英こそ、美砂の死にかなりのダメージを受けているんじゃないかとも思っていたくらいだ。
「そろそろ、しっかりしろ。限界が近そうだ」
限界。それは、もうじき、本当に病気になったり、倒れたり、するってことだろうか。それはむしろ、私の希望をかなえることになるんじゃないか、と朱理は思う。
心と体の調子がいまひとつだと、力が暴走しない。朱理は、そのことにも気がついている。
水の国に来てから、私はこの身に似つかわしくないほど、幸せだった。神の声に従って、嫌々ながら来たここで、わたしはそれこそ冷遇されると思っていたのに。
狭いところに一人ぼっちじゃない。好きなことができる。会話をしたり、触れたりできる人たちがいる。
それが、全部、身に余ることだったに違いない。
私には、あの石造りの塔が、やっぱり、相応しいのかもしれない。
近頃の朱理の考えは、どこから始まっても、結局その結論に到達する。
朱理は、あまりにも早くその日が来たことに、驚いてしまった。
「だから、赤ん坊が生まれた」
さらっと告げる青英のせいで、余計に朱理は混乱する気がした。
「美砂の?」
「他に妊婦がいたか?」
「いない…」
しっかりと現実に起きたことだと認識した瞬間、朱理は走り出していた。息を切らしながら、美砂の部屋の前まで来たのはいいものの、どうしたらいいのかわからずに途方に暮れているところへ、悠然と青英が姿を現した。
「なんでそんなに落ち着いてるの」
「お前は何でそんなに慌ててるんだ」
「だって、初めて見るんだもの」
「は?」
「赤ちゃんを見るのが初めてなの。それも、青英と美砂の子どもだなんて、奇跡みたい」
「……」
頬を上気させて、目を輝かせている朱理に、青英はわずかに頬を緩めると、美砂の部屋の扉を開けた。
さっさと青英が中に入ってしまい、朱理は迷ったけれど、動けずにいると、そのまま扉はバタンと閉まってしまった。
「何をやってるんだ、お前は」
迷惑顔で、青英が姿を見せた。
「いや、私が入ると、良くないかもしれないと思って」
「なんだ、何か燃やすつもりか」
「そんなつもりはない!」
「じゃあ、入れ」
「いいの?」
朱理がそう言うと、青英の口からではなく、部屋の奥から、「いいわよ」と久しぶりに聞く優しい声が聞こえて、朱理はあっさりと迷いを忘れた。その足は、一歩前に踏み出したら、あとは駆け寄るようになった。
「美砂!」
美砂のベッドにひざまずいて、彼女の手を取る朱理の目は、再び輝いている。
「おめでとう!」
にっこりとほほ笑む朱理に、美砂はかすかに涙ぐんだ。美砂には、グローブ越しの朱理の手は、前より小さく感じられたから。
結局、朱理は、ナンネンソウで身を覆うスタイルに逆戻りしているし、なんだか痩せているからだ。
「ありがとう」
一方の朱理もまた、胸が不安でざわついた。美砂の、顔色。はっきりと、青白いからだ。
出産とは、それほど、体の負担になる、大変なことなんだろう。それにしても、昨日の夜生まれたのだと、さっき聞かされたけれど、一晩経っても、その疲れは和らがないんだろうか。
そのとき、あっ、あっ、と聞き慣れない声がした。と思ったら、あっという間におああああ、おああああ、と震えるような泣き声が部屋に響く。
朱理は、文字通り、目を奪われた。
赤子に。
乳母がベビーベッドから抱き起きしたのは、顔を真っ赤にして泣く小さな生き物。
「あかちゃん」
朱理は、驚きと感動で胸がいっぱいになって、それが納まりきれなくなって、目から滴になって出て来たのだと思った。
「抱いてみる?」
美砂がそう言ったのは、聞き間違いだろうと思い、朱理は返事もしなかった。ところが、くいっとワンピースをひっぱられて、視線を下げると、美砂ははっきりと自分を見て、もう一度こう言った。
「わたくしの息子よ。抱いてみてくれる?」
そう言うと、乳母がびくりと肩を強張らせたのが、朱理にはわかったけれど。「抱いてみたい」という気持ちには抗えなかった。
「グローブの上からにするから」
乳母も、美砂も、青英も、そして何より自分も、安心させようと思って、朱理はそう呟いた。
陽輔が、朱理の誕生日に持って来たこの繊維は、確かに従来のものとは違うらしく、力が強くなった朱理でも、まだ焦がしたことがないから。
「では、両腕を出してください」
諦めたらしい乳母が細かに指示を出してくれて、なんとか赤ん坊を抱く格好をした朱理の腕の中に、そっとその子が入れられた。
「あったかい」
朱理は、自然に顔に笑みが広がることにも、気がつかないくらいに、赤ん坊の肌触りや、動きに夢中になった。
「小さい。でも、重い。よく動く。目が綺麗。ああ、可愛い」
思わず、赤子の額に、頬を寄せていた。
「可愛い」
何度言っても足りない気がして、朱理はもう一度そう呟いた。
朱理の胸でもぞもぞしていた赤子が、ぱくぱく口を開け閉めしながら、「あっ、あっ」と再び泣きだしそうな声を上げ出したから、朱理はおろおろした。
そんなふたりの様子を見て、美砂と乳母は声をあげて笑う。
「ど、どうしたらいい?」
珍しく困って、迷っている朱理の表情が、可愛くて、美砂は目を細めた。
「ここからは、わたくしの出番ね。その子はね、おっぱいを探してるの」
「へえ!」
感心する朱理の腕から、乳母は、赤ん坊を抱きあげて、美砂の隣に静かに下ろした。躊躇なく、美砂がネグリジェの胸元を開いて、綺麗に膨らんだ乳房を出したかと思うと、先を赤ん坊にくわえさせたから、朱理はまた感動した。
「美砂、お母さんになったんだね」
必死に吸いつく赤ん坊にも、感動する。
「あなたは幸せだね。お母さんのおっぱいが飲めて」
朱理は、自分が産まれたとき、死んでしまった母はもとより、誰も、直接母乳を飲ませることができなくて、大変だったと陽輔から聞いたことがある。
「そういえば、この子は、男の子なの?女の子なの?ああ、息子だって、さっき美砂が言ってたのに、もう忘れてた。それから、名前は?」
一瞬、朱理の出生を思い、部屋の空気は、静かに暗くなったのだが、本人はさほど気にも留めずに、赤ん坊のことばかり考えているらしい。
「駄目だ、私、興奮状態みたい。このままじゃあ、美砂に無理をさせそうだから、今日はこの辺にして帰ることにする」
一気にそう言うと、最後にもう一度、朱理は美砂の手をきゅっと握ってにっこり笑った。
「おめでとう、美砂。大切な赤ちゃんを抱かせてくれてありがとう。私、美砂のことが大好き。また、会いに来るね」
美砂も、ゆるゆると頬がゆるんで、朱理に頬笑みを返した。
「わたくしも、朱理のことが大好きよ」
朱理は、胸がさらに熱くなった気がして、頬まで熱くなった気がして、落ち着きなく自分の濡れた顔を拭いながら、部屋に戻ったのだった。
だから、朱理は、悪い冗談じゃないかと、思った。思いこもうと、した。
「私をからかってるの?」
朱理は、一縷の望みをかけて、そう言ってみる。それでも、青英は沈黙を返すだけだった。
本当のことなんだ。
それが直感的にはわかったし、理解したいと思うけれど、体がそれを拒否するかのようだ。なぜか固くつぶった目が開けられない。握りしめた拳を開けない。
「顔を見に行くなら、今晩の内だ。明日の朝には埋葬する」
今日は、心の中でなだめたりすかしたりしないと、朱理の足は、なかなか前へ進まない。ようやくたどり着いた部屋の中は、怖いくらいにしんと静まり返っていた。
近付いたベッドに、数日前の温かみや賑やかさはない。まさか、あれが最期になろうとは。
「早い」
ようやく、乾いて張り付いたようだった朱理の喉から、声が出た。
「早すぎるよ、美砂」
後はもう、言葉にならなかった。縋りついて、頬を寄せた彼女の体は、すでに冷たくて、堅い。
私の、初めての女友達。姉の様な、妹の様な、先生の様な、母親の様な、存在。朱理は、ぐるぐると目眩がしそうな回転をする頭の中で、美砂について、考える。
美砂。
美砂。
美砂。
最後には、こちらに微笑みかけてくる、記憶の中の美砂に呼びかけることしかできなくなって、朱理は絶望した。
いつの間にか、そのまま眠ってしまったらしい。美砂の部屋のソファで、朱理はふうっと息をついて、目を覚ました。
今の今まで、息が止まっていたみたいに苦しくて、静かに深く、深呼吸をしている。
「お前は、立派に務めを果たしてくれた」
静かな声が、微かに耳に届き、朱理はとっさに息をひそめた。
「感謝、してる」
そっと腫れた目を開くと、美砂のベッドの傍らに、青英が立っているのが見えた。
「でも、男の子を産めば、死んでもいいとは言っていない。お前だって、一緒にこの国を見守りたいと、言っていたはずだ」
わずかに、彼の声が震えていることに気がついて、朱理は自分の胸も震えているような錯覚に陥った。
「俺のせい、だろうか」
自信のない疑問形の言葉。青英が、皮肉ではなくて、疑問形を使うのが、痛々しく感じられて、朱理は無意識のうちに自分の胸元をぎゅっと握りしめている。
「神の声は、俺とお前のことを、示唆していたのかもしれないのに」
青英のその言葉で、朱理は初めて、あの日聞いた神の声のことを、初めて思い出した。
《水は土を育てることを、忘れるな。近付き過ぎてはならぬ》のくだりは、自分には全く関係がないことだと判断したのか、呆然自失の状態だったせいか、全く記憶に残っていないと思われた。
でも、青英の言葉を反芻していると、神の声がそう告げた記憶が戻ってくる。朱理から見れば、それが、美砂の死期が早まると暗示しているようにも思えないのに。
朱理は、暗くて表情がうかがえないものの、声からして弱っている様子の青英が、痛々しくて、たまらなくて、どうすればいいのかわからなかった。
青英が、そっと身をかがめたと思うと、美砂の額に口づけた。
それを見た瞬間、朱理は頭か顔かよくわからないところが、かっと熱くなったと感じた。
『青英も、美砂のことが好きだから、赤ちゃんができて、離婚もしないんでしょう』と、ほんの数日前に、自分自身が言った声が、耳の奥で響いている。
私が死ねばよかったのに。
自分でもよくわからない、混乱した感情の中で、ひとつだけ、わかりやすくはっきりと浮かんでくるのは、その思い。
美砂じゃなくて、私が死ねばよかった。
どうして神は、世界を破滅に追いやる可能性のある私ではなく、美砂を連れて行ってしまったんだろう。
青英の「お荷物」じゃなくて、「同士」を奪ったんだろう。
美砂を失って、この城は静まり返っている、と朱理は思う。
美砂の声が大きいと感じたこともないし、彼女の行動が活発だと思ったこともないのに、その存在感は、やはり特別だったのだろう。
いつも穏やかな微笑みを浮かべた美しい人。心が強い人。
この沈んだ城の中で、朱理は、自室に閉じこもり、ぼんやりと本を読む。
美砂を思い、彼女を失った青英と、赤ん坊のことを思い、最後には自分と母親のことまで考えながら。
世の中が、色彩を失ったように感じていた。
「何を、考えてる?」
朱理がようやく我に返ると、すでに外は真っ暗で、いつものように青英がノックもなく自分の部屋に入ってくるところだった。
手元には本を開いたままの恰好で、ソファに腰掛けているけれど、こんな暗い中で本を読んでいるはずもないと、さすがにわかったのだろう。
「母親の、ことを」
朱理は、思わずそう呟いていた。
「へえ?」
美砂が死んでから、青英はますます口数が少なくなったと、朱理は思う。だから、珍しく話しかけてくる青英に、つい答えてしまったのだった。
「あー、うん、青英のお母さんの言う通り、私が殺したようなものだから。ときどき、思い出して謝ってみてる」
「はっ」
「笑うようなところだった?」
ムッとする朱理を前に、青英は、久しぶりに浮かべた笑みを消しながら、ソファの反対側の端に座った。
「お前が母親に謝るって変だろうが」
「どうして」
「お前の母親は、父親との間に子どもが欲しいから、お前を産んだんだろ。自己責任だ」
「は?」
「だから、自分が原因で死んだんだろ」
「は!?」
「他人の言葉に惑わされるんじゃねえよ。自分の頭で考えろ」
朱理はぽかんとして、青英を見つめるだけだ。そんなこと、考えたこともなかったし、誰も彼も、朱理を母親を焼き殺した呪われた赤子としか表現しなかったから。
「女王は、まず自分が息子を産んで、その妻がまた息子を産んで、この国を無事に継いでいくことが、もっとも大切だと信じてるからな。それを脅かす可能性のあるものは徹底的に排除する。だから、あれに言われたことをいちいち真に受けるなよ」
誰のことを言っているのか、しばらくの間、朱理は考えなければならなかった。
「…青英のお母さんのこと?」
謁見した時に、『お前、自分の母親を呪い殺したのであろう?』と憎しみをこめた目で自分を睨みながら、女王はそう言ったはずだ。
「お母さんって面じゃねえだろ、あれは」
「いや、綺麗だけどね、作りは」
「お前もはっきりと『作りは』とか言ってるじゃねえか」
「…ごめんなさい。まだ怖い顔しか見たことないから」
「いつもあんなもんだ」
「そっか」
でも、生きてるだけ、いいよね、と朱理は小さく呟いた。青英に聞えたかどうかはわからない。
「まあ、でも、女王に言われたから、そう思ってるわけじゃない。いつの間にか、そう刷り込まれてたからだと思う」
現に、言われたときは激しい怒りに駆られたけれど、今は全く思い出したりすることもないのだ。
青英は、朱理の答えを聞いて、わずかに首をかしげたようだった。
「父親のことは、考えないのか。あの、異常に過保護な」
「過保護?そんなふうに思ったことは、ないけど。お父さんのことを考えると、辛いから、あんまり考えない」
「なんでだ」
「大切なお母さんを殺したから。その後も、私を育てるのにものすごく苦労してるから」
「そう言ったのか?」
「ん?」
「父親がそう言ったのかよ?」
「いや…、わざわざそんな意地悪言わないでしょう」
「お前の思い込みじゃねえの?」
「は?」
「お前の父親、お前がかわいくて仕方ねえって顔しかしてねえけど」
「はあ!?」
どこをどう見たらそうなるんだろうって思うけれど。
「常に、お前に関心を持ってる。風汰みたいに周りをうろちょろしないけど、いつもお前のことを考えてる感じがする」
「そう…かなあ。お父さんってそういうものなの?」
「いや?王は違うぞ」
「王って…、青英のお父さんだね」
「あれは、全てに無関心。自由がないままで歳をとったら、ああいうみっともない年寄りになる。ぞっとするな」
心底嫌そうな顔で、青英はそう言い捨てた。
「自由」
朱理は、呟いてみた。自由がないと、熱にうなされながら、青英がうわ言を言っていた場面をありありと思いだした。
「このままあんなじじいになるのかと思うと、マジでイラつく」
ああ、青英は、自由がない生き方をこのまま続けた将来の姿として、王を捉えているのだと、朱理も気がついた。
確かに、ただ1度だけ謁見した時の王は、無気力かつ無関心に見えた。王らしい威厳はあるものの、その内面が見えないくらい空っぽに思えた。
激しい感情が渦巻いているように見える女王とは、対照的だったっけ。朱理は、ふたりの姿を思い出してみるけれど、いまだに、あのふたりと青英が親子だとは思えなかった。
似ていない、わけではない。
母親の上品な美しさを、父親の冷たくも雄々しい雰囲気を、しっかりと青英は受け継いでいる。
だけど、3人がバラバラのような印象。誰も、誰かと、繋がっていない。そこに思い至って、朱理はもう、考えることをやめた。
「そんな両親でも、生きてるだけ、いいか?」
青英が、そう問いかけて、隣から顔を覗き込んだから、朱理ははっとした。
さっき呟いた一言は、声が小さくて聞えなかった訳じゃなかったんだ。否定する気持ちを持っているから、沈黙を貫いていただけだと、今初めて気がついた。
「そんな、気がする」
生まれつき背負うものが大きい人には、親が生きてさえいればいいという、自分の考えはなじまないのかもしれない。朱理は、初めてそう思った。
立場の異なる青英の視点を借りると、朱理は、父と母の姿も、自分の目から見るときとは、少し違って見えてきて、不思議に思えた。
「大丈夫か」
青英は、思わず口から出た自分の台詞に、舌打ちしたい思いだったけれど、なんとかそれは我慢した。
「ん?なにが」
「何がじゃねえ。調子悪いんだろ。早く寝ろよ」
「よくわかるね。お父さんみたい」
ちっ。次は、舌打ちも我慢できなかったらしく、青英は、ため息を吐いた。
朱理は、青英の舌打ちにもため息にもすっかり慣れたので、気にすることなく素直にベッドに向かう。
「おっさんと一緒にするな。とにかく、もうちょっとなんか食え。もっと小さくなるぞ」
「え?背って縮むの?」
「…バカだな、お前」
「なんだ、縮まないのか」
「ほんと、バカだ」
「…私はそんなにバカなの?」
「珍しくいつまでも、落ち込んでんじゃねえよ、バカ。美砂はあれが寿命だ。よく持った」
朱理は、声が出なくなった。
城の中の景色は色を失って、食べ物は味を失くし、眠りは悪夢をみせる。全ては、美砂が死んだ日からだ。
ひどい汗で、目を覚ました時、ときどき、青英と目が合うことがある。朱理は、そんなときですら、彼が何も言わなかったから、自分の苦しみは、外に漏れていないと思っていた。
もしかしたら、そんな時間に目覚めている青英こそ、美砂の死にかなりのダメージを受けているんじゃないかとも思っていたくらいだ。
「そろそろ、しっかりしろ。限界が近そうだ」
限界。それは、もうじき、本当に病気になったり、倒れたり、するってことだろうか。それはむしろ、私の希望をかなえることになるんじゃないか、と朱理は思う。
心と体の調子がいまひとつだと、力が暴走しない。朱理は、そのことにも気がついている。
水の国に来てから、私はこの身に似つかわしくないほど、幸せだった。神の声に従って、嫌々ながら来たここで、わたしはそれこそ冷遇されると思っていたのに。
狭いところに一人ぼっちじゃない。好きなことができる。会話をしたり、触れたりできる人たちがいる。
それが、全部、身に余ることだったに違いない。
私には、あの石造りの塔が、やっぱり、相応しいのかもしれない。
近頃の朱理の考えは、どこから始まっても、結局その結論に到達する。