身を焦がすような思いをあなたに
石造りの塔
「お父さん」
小さく呟いてみる朱理(あかり)。
窓の外、はるか下のはるか遠く、広い畑の中に、ぽつんと彼女の父親が、立っている。
彼の周りから、円が広がるように、畑をちろちろと赤い炎が舐めるようにして進む様子が見て取れる。
今、朱理の父親は「仕事中」だ。
「私も、何か手伝えればいいのに」
ため息混じりに、そう言ってみるけれど、その言葉に答える者はない。
この国は、焼畑農業が主な産業だ。
だが、朱理の家では代々農業ではなく、その畑を焼く作業を引き受けることが、仕事だった。
その仕事に、特別な道具や訓練は、要らない。必要なのは、遺伝する能力だけ。
朱理は、はめていた薄手のグローブを、右手だけ脱いで、そっと手のひらを上に向けてみた。
「ぼっ」と音がして、小さな炎が浮かび、数秒の間だけ、朱理はそれを見ていた。しかし、彼女のため息とともに、その炎は消えた。
そう。炎を操れるのが、朱理の一族の能力。
彼らは、その能力から、「火の一族」と呼ばれている。
「できそこない」
毒づいてみると、思いのほか自分が傷ついたことに、朱理はわずかに動揺する。
石造りの窓枠は、ひんやり冷たい。その底辺に両腕を載せて真ん中で指を絡め、その上に頬を載せる。
だって、私は上手く炎を操れないんだもの…、心の中でだけ、朱理はそう思う。
「誰が、できそこないだって?」
いつの間にか、窓の外に現れた、見慣れた顔に、朱理は微笑んだ。
「私だってば」
「へえ。エリートじゃなくて?」
「まさか。自他共に認める、一族きっての問題児」
「そう思ってるのは、朱理だけだろ」
だとしたら、こんなところに、長い間、閉じ込められるだろうか。朱理は、そう思う。
目の前の男の足から地上までは、どのくらいの高さがあることだろう。数百はないが、数十メートルはあるはずだ。
ここは、石で造られた塔の中。朱理の世界は、このひとつの空間の中でしか存在できない。「風汰はいいな。どこにでも飛べて」
何度思って、何度言ったかしれない台詞だ。
「そう?」
何でもないことのように、いつも通りさらりと答えて、風汰が窓から入ってくる。
枠に掛けられた、彼の右手の甲に、小さな指の跡が引き攣れて残っているのが、自然と目に入るのも、いつものこと。
ごめんね、と朱理は胸の中で言葉を吐きだす。
「あのさ、わかってると思うけど、もう、痛くないから」
明るく笑う風汰にいつも朱理の気持ちは救われる。
朱理の気持ちを先回りして読み、応えてくれる。朱理が兄弟のように慕う存在だ。
ただ、本当の兄弟ではない。
風汰は「風の一族」の一員だから。
風汰は、いまだにこの火傷のことを、朱理が気にしていると、知っている。
だが、彼にとってこの傷は、決して苦い思いを呼び起こすものではない。
いや、むしろ愛しいくらいだ。
風汰は、少し目を伏せたままの、朱理を見つめて、その日のことを思い出す。
何かの物語の中に迷い込んだんじゃないか。
その情景を前に、風汰は、そう思った。
退屈しのぎに風に乗って、両親から固く禁じられていたにもかかわらず、国境まで越えて、火の国の中に入ってすぐのところ。
草ひとつ生えていない荒野の向こうに、狂うように咲き誇る真っ赤な花たちが目に入った。
毒々しいくらいの鮮やかな色の花弁は細く大きく、天に手を伸ばすように反り返って広がっている。それが重なるように密集しているその情景は、幻想的で、この世のものとは思えなかった。
どれくらいの間、その花畑に心を奪われていたことだろう。ふと、かすかに何かが聞こえた気がして、風汰は顔を上げた。
そして、その花に囲まれ、中心にそびえたつ真っ白な石造りの塔に、ようやく気がついたのだった。
「ああ、綺麗だ」
呟くような声が、自分の口からこぼれたことにも、風汰は気がつかないくらいだった。
赤と白のコントラスト、そして、耳に届く歌声。
なかば恍惚とした状態のままで、いつの間にか、塔の最上層にある窓まで飛んでいた。
「おとうさんじゃ、ない」
窓辺に両手を載せて、こちらを見つめながら、赤茶けた短い髪の子どもが、はっきりした声音でそう言った。
意思の強そうな瞳は大きくて、強い視線を風汰に投げかけてくる。目の前の少女も、5歳の自分よりいくらか幼いだけに見える。
どうして自分を見て「おとうさん」という単語を漏らしたのか、風汰は不思議に思った。
のちに、彼も知ることになる。少女のもとへ足を運ぶ人間が、彼女の父親ひとりしかいなかったのだということを。
「僕は、風汰。綺麗な歌が聞こえて来たから、遊びに来たんだ」
風汰がそう語りかけると、少女のややつり気味の目は丸く見開かれた。
「私の、歌を、聞いて、遊びに、来て、くれた…」
そこで、初めて、風汰は、少女の言葉が年齢以上におぼつかないものだということに、気がついた。
「うん。僕と一緒に遊ぼう」
そのことも気にせずに、風汰がそう言うと、少女は、大輪の花がゆっくりと開くように、笑ったのだ。
風汰は、この塔の周りに咲いていた花の比ではない美しさだと、心の底から思った。
「で、も」
そう呟くと、少女の顔から、滑り落ちるように、そのあでやかな笑みが消えてしまった。
「私、どうやって、遊べば、いいのか、わか、ら、ない」
「え?」
風汰が首をかしげると、少女はこう続けた。
「ともだち、風汰が、はじめ、て」
唇をぎゅっと横に引いて、ややこわばった表情の少女とは対照的に、風汰は自分が浮足立ってくるのを感じた。
風汰、って呼んでくれたから。
「君の、名前を教えて?」
僕が、初めての友達だなんて、なんて幸運なことだろう。風汰の胸は、その気持ちだけでいっぱいだった。
「あかり」
そのときは、どんな字を書くのかわからなかったけれど、「アカ」という響きが、彼女にぴったりだと、風汰は思った。
「じゃあ、あかりの好きなことを、一緒にやろう。何をすることが好きなの?」
風汰がそう話しているうちに、次第に朱理の瞳がきらきらと輝きだすことに、再び風汰は意識を奪われる。
「えほん、が、すき」
かわいい小さな唇が、「すき」と動いただけで、どきりとした自分が恥ずかしくなって、風汰は慌てて言葉を紡いだ。
「えっと、じゃあ、一緒に絵本を読もう。僕、ここから入ってもいい?」
生き生きとした瞳のまま、朱理が大きくうなずいて、ずいぶん後ろに下がったから、風汰は少し首を傾げたけれど、あまり気にしないで、窓から中へ入った。
「本棚は、あっち、に」
そこまで言って、足を出したとき、朱理は何かにつまづいて転んだのだ。
「ああっ!!」
風汰に差し出された手を、朱理が反射的に掴んでしまって、どちらからも異常なほどの悲鳴が上がった。
痛みに顔をゆがめて、目に涙を浮かべる風汰を見て、朱理は激しいショックを受けて呆然としていた。
自分の指が触れた、風汰の手の甲の皮膚が、赤くただれていたのだから。
お父さんから、人に触っちゃだめだって、言われてたのに。涙でぼやける視界の中、朱理はそう思った。
朱理は、自分の指先から放たれた何かに、父がそう言い聞かせてきた、その理由を悟った。
そして、不条理だと思えるさまざまな制約が、すべて必要なものだったということを知った。
風汰、風汰、私の初めての友達。絶対に彼に、触れてはいけなかったのに。
朱理は、今でも、あの瞬間のことを、夢に見る。
自分の体の中に溜まった激しい熱が、手から風汰に伝わり流れていくあの感覚を。火山からマグマが噴出するみたいだった。
呪われた血だと、思う。
だからこそ、今では、父と自分しか、この能力を受け継いだ者はいないのだと朱理は信じている。混血が進んで、いつの間にか、火を操れるのが、ふたりだけになっていた。
父親とは違って、自分でもコントロールできないほどの力を持つ朱理は、ここを出ることはおろか、父親以外の人間に触れることさえかなわない。
結婚もせず、子どもも生まず、この塔の中だけで生きて、ひっそりと一生を終えるのだろう。
いや、もしかすると、自分の面倒を見てくれる父親がいなくなったなら、すぐにでも生きていけなくなるのかもしれない。
いつのころからか、ずっと、そう思っている。
それは、風汰に火傷を負わせてしまったあの日からかもしれない。触れるだけで人を傷つけるこの皮膚が、自分でも恐ろしくなることがある。
はあ。小さくため息を吐いて、朱理は記憶を振り払う。そっと、薄手のグローブをはめ直しながら。
「それ、おじさんの新作?」
新しいグローブに気がついて、風汰がそう尋ねると、朱理はようやく微笑んだ。
「そう。ここまで薄い生地が作れるようになったって、自慢してた」
口数の少ない父が、饒舌になる数少ない機会が、副業の話をしているときだ。
「それも、ナンネンソウからできてるの?いつもとちょっと色が違う」
風汰は、微かに桃色に染まったその色を、初めて見たと思う。朱理が身につけるのは、いつも、無着色のナンネンソウのベージュ色の繊維だけ。
「そう。ナンネンソウって、丈夫過ぎて、染色も難しいんだって。なんとか、桃色に染めようとしてるみたい」
ナンネンソウは、「難燃草」の意味だ。この火の国では、昔から自生していた野草で、朱理のいるこの石造りの塔の周りに、一年中咲いているのがこのナンネンソウの花だ。
「朱理、大事にされてるんだな。君の好きな色だろ」
風汰がそう言うから、朱理は何て答えていいのか、困ってしまった。
「今じゃ、この国にとって、焼畑農業以上の産業じゃないの?ナンネンソウを使った繊維産業は。それって、全部、おじさんが朱理のために開発したものだろ」
朱理は、外の世界のことをほとんど知らない。
火の国の産業のことだって、風汰に教えてもらうまで何も知らなかった。
けれど、触れたものをすべて、燃やすか焦がすかしてしまう自分のために、父親が寝る間も惜しんでナンネンソウの研究をしていたことだけは、よく知っているから。
「そうだね。感謝してるよ」
グローブの手触りを確かめて、朱理は呟いた。
元々、ナンネンソウの繊維は硬く、衣類に適したものじゃなかったそうだ。消防服や、貴重な荷物を運搬するための袋に使われる程度だったとか。
それを、こうして素肌にまとえるように工夫を重ねたのは、朱理の父親に他ならない。
それでも、思うのだ。
父は、私が生まれたことを、恨んでないだろうか、と。
いまだに彼が、母の古い写真を、常に持ち歩いていることを、朱理は知っている。
彼女の命と引き換えに、生を受けるほどの価値なんて、私にはなかったんじゃないかと、冷たい白い石に囲まれたこの部屋の中で、彼女は毎日考え続けている。