身を焦がすような思いをあなたに
運命を変える神の声
《火の国の外れ、風の国との境に近い場所にある、白英石の塔へ参集せよ》


神の声が、そう言葉を紡ぐ。

明け方、脳の中に、直接、響くようなその声に、朱理は目が覚めた。


泣きながら寝たらしく、瞼が開き切らないような、妙な感覚がある。ずいぶん腫れているのだろう。


《そこで顔を合わせるべき人間は、火の一族の娘、水の一族の王子、風の一族の息子、土の一族の姫》


男とも女とも、年寄りとも子どもとも、わからない、奇妙な響きかたをする声だった。


朱理が、神の声と言われている、この声を聞いたのは、生まれて初めてだった。

ただ、父を始め、大抵の人間は聞いたことがあるらしく、その噂だけは知っていた。

神の声は、全ての人間に、等しく聞こえるわけではなく、毎回、必要な人間を選んで聞かせているらしい。
無理に起こされたせいか、いつも以上にぼんやりした頭で、神の声の話した内容を反芻していた時、部屋の扉が開いた。


「朱理、支度をするんだ」


朱理の父、陽輔だった。

陽輔も、神の声を聞いた一人で、すぐにこうして娘の部屋に来たのだ。

しかし、窓の下の、絨毯のない冷たい白英石の床に、膝を抱えた姿勢で眠っていたらしい娘の姿を見たとき、次に話すべき言葉は消えてしまった。


眠っている間に、何かを燃やしてはいけないと、思ったのだろう。

赤く腫れた目で、ぼうっとこちらを見ている娘に、陽輔の胸はひりひりと痛んだ。それこそ、焼けつくように。はっ、と短くため息を吐いて、陽輔は一旦、娘の部屋を出た。

階下にある自分の部屋に降り、水でしぼったタオルを持って。そのとき、鏡に映る自分の曇った顔を、なんとかしなければいけないと思い、頬を叩いておいた。


「お父さん、ありがとう」

娘の口が、そう動く。

濡れたタオルで目を冷やしてやっている。これで、少しは腫れが引くといいが、と思いながら、娘の今後についても考えを巡らせてみる。


このタイミングで、神の声を聞くなんて、嫌な予感しかない。


娘が昨日、焦がしたグローブは、彼が自分で切り刻んで捨てた。誰にも見つかるわけにはいかなかった。

そして、もっと燃えにくい性質のものを探すか、ナンネンソウの繊維をさらに燃えにくいものに改良するか、どちらが早く成果を上げるだろうかと、考えながら、一晩を明かしたところなのだ。

神は、そんな自分も、娘も、見逃してはくれなかったのだ。


早朝に聞えた神の声に、陽輔は早くも絶望的な気持ちを持ちそうになる自分を叱責しながら、朱理の部屋へと急いだのだった。

とにかく、言われたとおりにするしかない。神の声は、絶対だから。


「お父さん、白英石の塔って、ここのこと?」

朱理が、そう言った。あまり外に出ない朱理には、国の位置関係など、はっきりとはわからなかったのかもしれない。

「そうだ。朱理は、ここで、残りの3人を待っていればいい」

朱理が他の場所へ出かけると、そこが火事になる可能性があるから、神はここを指定したに違いないけれど。



「私、死なないといけないのかな」


ぽつりと、呟いた娘の声が、やけに静かで落ち着いていたから、陽輔は珍しく動揺した。

「ば、かなことを、言うんじゃない」

久しぶりに、娘を抱きしめた。自分が震えているのを隠さんとするばかりに、力を込めて。


「生きてると、誰かを、傷つけそうだもの」


悲しそうでも、うらみがましくもない、その声音を、むしろ痛々しく思えて、陽輔は、さらに娘を抱く腕に力を入れてしまう。

「もう考えるな。お父さんがなんとかするから」

これまでだって、怯える朱理に「なんとかする」、と言い聞かせながら、必死でなんとかしてきたのだから、きっと、これからだって、なんとかなるはずだ。

陽輔は、そうやって、自分にも暗示をかける。
「正装、の服を、作ってやれてなかったな。すまん」

神の声を待つのだから、きちんとした格好がいいのだろうが、ナンネンソウで作った、朱理の衣類の中に、そんなものはなかった。

お祝いの席にも、お悔やみの席にも、朱理は呼ばれる機会はなかったから。

「いいの。お父さんの服は、なんでも、着ていて気持ちがいいから」

そう言って、朱理は、陽輔の腕を解いて、目を冷やしていたタオルも取った。


「身を清めて、服も着替えてきます」

陽輔は、思いのほか、娘の方が冷静なようだと、認めざるを得なかった。

あるはずのない正装用の衣装を探すより、できる範囲で身ぎれいにするべきなのだ。


浴室へと姿を消した娘が、どうしてあんなに落ち着いているのか、陽輔は考えるのが怖くなり、軽く頭を振ると、階下へと向かった。
「朱理。おはよう」

一番にやってきたのは、予想通り風汰だった。

いつも通りに、にこにこしながら緊張感なく、窓枠に手をかけている彼の顔を見て、朱理は少し、自分の肩の力が抜けたことを感じた。

「風の一族の息子」というと、彼になるのだろうと、朱理も思っていたから、驚きはしなかった。

風の国も、火の国と同じで、民主制だ。だから、風汰の一族も特殊能力を備えてはいるものの、直接国の運営にまで関わっているわけではない。ある人はそういう仕事に従事してるし、また別の人は農業やその他の産業で生計を立てている。つまり、どこの家とも変わらない。

その一族の直流で、嫡男であるのが、たまたま風汰なだけだ。

同じことが、朱理にも言える。

火を操る能力を持っているのは、陽輔と朱理だけだから、「火の一族の娘」と言えば、朱理に間違いないだろうが、彼らには、親族が全くいないわけではなく、それぞれが、思い思いの職業についている。
「今日はね、下の部屋に集まることになってるの」

朱理は、そう言って、風汰を招き入れる時、いつもと違うところにようやく気がついた。

「それが、風の一族の正装?素敵ね」

深い緑の色の、上下の服は、ところどころ金の糸で刺繍が施されている。肩から広がるマントが、いつもよりも風汰を大人びて見せていた。

「ありがと。でも、動きづらくてさ。ここに来るにも、いつもより余分に時間がかかったよ」

照れくさそうに微笑みながら、正直にそう言う風汰に、朱理は久しぶりに笑うことができた。

確かに、風汰は、いつも動きやすいだけのラフな格好しかしてなかったと、思い出して。


階段を降り、父の部屋を通り過ぎて、さらに下の部屋のドアを開ける。
朱理がドアのノブを引いた時、中から少し空気が吐き出された。


「朱理、なんかいい匂いがする」


彼女の後ろに立っていた風汰がそう言ったから、朱理は振り返った。

「ああ、正装できない代わりに、身を清めたからかな」

身を清めたと言っても、単純に、風呂に入った、というだけなのだが。

「あ、くらくらしてきた」

風汰がそう言うけれど、朱理は首をかしげて笑う。

「はあ?くさいってこと?いい匂いなのか変な臭いなのか、どっち?」

鈍感な奴、と喉まで出かかっていた声が、出せなかった風汰。


屈託なく笑う朱理の頭の向こう、つまり、部屋の中で、はっきりと自分を睨んでいる男に気がついたからだ。
「…おはようございます。おじさん」

ヤバい、こっちには感づかれてるかもしれない。

風汰は、自分を見据えている陽輔の視線に耐えかねて、視線を外した。


「無駄口叩いてないで、さっさと座れ」

うわ、絶対気がついてる、僕の気持ちに。

確かに、はじめから、陽輔は風汰にこんな態度で、歓迎された記憶もない。だが、近頃、輪をかけて、扱いがひどい気がすると、風汰は思う。

朱理に触れることもできないと知ってるからこそ、なんとか今の状況を黙って見逃してやってるんだと、はっきりその顔に書いてあるようにすら思える。

まあ、こっちに邪心がある以上、仕方ないか、と風汰は諦めて、座る場所を探す。


が、初めて入ったこの部屋はがらんとしていて、椅子はおろか、家具ひとつない。絨毯も、クッションもないその床に、朱理はちょこんと座って、こちらを見ている。

そうか、と風汰は理解して、朱理と同じように、何もない冷たい床に腰を下ろした。

朱理が突然力を解放してしまわないように、配慮したらしい、と風汰は気がついたのだ。
隣に腰を下ろすと、朱理は安心したような笑みを浮かべて見せた。


ただ鈍感というよりも、人の感情を読む能力を身につける機会を奪われて成長したんだろうと、風汰は朱理の裏のない笑顔を見て思う。

はっきり言葉にしたこともないけれど、風汰は、自分が、朱理のことを恋しく思う気持ちを、隠したことはない。


なのに、ちっとも伝わらない。

それでも、ゆっくりと、伝わればいいと、思っていた。

いつの間にか、つっかえることなく話せるようになったのと同じように、自然に人との関わり方や、相手の感情を予想する力を身につけた方がいいと、風汰は考えていた。


ただでさえ、朱理の置かれている状況は、辛い。その重責に耐えているのだから、これ以上の負担を強いるのは嫌だった。

「どうしたの、お腹でも空いた?」

くすくす笑う朱理に気がついて、風汰は硬かった表情を緩めた。

「そんなはずないだろ。食べて来たところだし」

ほんとに、鈍感だな。

「だって、珍しく黙って、何か考え込んでるんだもん」

そんなふうに言われると、風汰は、いつものように、一緒に笑うしかなかった。

「失礼だな、朱理は。僕が黙って考えることって、食べ物のことだけ?」

そこまで食い意地が張っているつもりはないけれど、いつも朱理の前で考え事をしないようにしていることに、彼女が気付いているような気がして、風汰は、どこか温かい気持ちになった。


そのとき、にわかに外が騒々しくなった。

陽輔は、黙ったまま、ドアを出て、階下に向かった。

風汰と顔を見合わせてから、朱理は、窓に近づいて、下を見下ろしてみた。同じように、風汰も隣の窓から、顔を出している。
黒い服に身を包んだ人々が、馬から次々と下りるところだった。彼らは塔の中に入る様子もなく、そこで馬を繋ぎ、一休みをするようだ。



そのとき、がたっと部屋の入口のドアが開き、陽輔が戻ってきた。

「こちらへ」

短い彼の言葉の後に、朱理は、後ろに続いて入ってきた人間を、見つめた。

「私の娘で、朱理。その隣は、風の一族の息子、風汰で、彼らは幼馴染です」


その、かすかに青みがかってみえる黒い色の、短髪の男は、冷えた眼差しで、朱理を捉えた。

朱理も遠慮なく人の顔をじいっと見つめる方だが、短髪の男もまた友好的にも見えない眼差しを向けたまま動かないので、その様子は、陽輔から見ると、まるで睨みあっているかのようにも思えた。


朱理は、こういう場合に、どういう言葉を用いて、挨拶を交わすべきなのかを知らない。「彼は、水の国の王子、青英(しょうえい)。中へどうぞ」


仕方なく陽輔がそう紹介して促すと、短髪の男、青英は、ようやく朱理から視線を外し、風汰をちらりと見つつ、部屋の奥へ進んだ。


ほっ、と小さく息を漏らしたのは、朱理。


蛇に睨まれた蛙って、こういう状態を言うんだ、と朱理はびくびくと怯えたように鼓動する胸を押さえながら思った。

鋭い視線が、射抜くようで、身動きも呼吸もできなかった。

あれが、王子?水の国は、軍事国だっただろうか?青英は、王子というよりも将軍という肩書の方が似合う、と朱理は思う。


この、ひりひりするような、緊張感の中、どれほどの時間を耐えたことだろう。

華やかな笑い声が聞こえて来て、朱理は、いつの間にやら、寝不足のせいか緊張のせいか、自分がぼんやりしていたことに気がついた。
きっと、招集されたメンバーのうち、最後の一人、土の一族の姫が到着したんだ。

どきどきしながら、風汰の方を振り返ると、彼も朱理を見たところで、ふっと笑みをこぼした。

風汰はいつでもどこでも風汰のままだな、と感じると、朱理も少し気持ちが落ち着いた。



「お待たせいたしました。土の一族の、千砂(ちさ)と申します」

輝くような金髪のまっすぐな髪を、腰まで揺らしながら、彼女がそう言って現れたとき、朱理はおとぎ話のお姫様って、きっとこんな人だったに違いないと思った。


風汰の明るいグリーンの髪と、深い緑の瞳には、すっかり見慣れている。

だけど、土の国の人間に会うのは、これが初めての朱理は、すっかり千砂に見惚れてしまった。

薄い茶色の瞳は、優しげな印象を与える。

物腰や、声の様子からしても、きっと温厚で慎重な女性なのだろう。
それに引き換え、私ときたら。

瞳の色は、赤茶色で、濁った泥水みたい。同じ色の赤茶けた髪は短くて、なんとか耳を隠す程度の長さで、ひどいうねりが出るくせ毛だ。

この火の国でも、髪を伸ばす女性は多い。朱理も、いつかは髪を伸ばしてみたいと思っていた。それを、すっかり忘れたふりをしていたのに、千砂の美しい髪を見ると、思い出してしまった。

ため息をつきそうになって、父の存在を思い出し、慌ててそれを飲み込んだ。

朱理の髪を短く切るのは、父である陽輔だから。

朱理自身の記憶には残っていないものの、どうやら、彼女の髪が焦げたことがあったらしい。もちろん、いくら朱理といえども、自分の髪に触れたところで、何も起こらないのだが、何かを燃やしたその火が、移ってしまったのだ。

だから、朱理は物心がついた時から、ずっと、短い髪型のままだった。
「青英様、ご無沙汰いたしております」

そんなことを夢中で考えていたから、千砂の言葉に、朱理はびっくりした。


「千砂も、たまには我が国へ来い」


低い声が、朱理の耳にも届いて、あまりに驚いた朱理は、聞き間違いかと思ったくらいだ。

あの、王子が、しゃべった。

この部屋に入ってから、一言も口を聞かないで黙り続けていた、あの威圧的な態度の男が、いくらか表情を緩めて、千砂を見ていたのだから。

「ありがとうございます。また、方々が落ち着いた折にはぜひ」

千砂がそう言って優雅に身をかがめると、青英は、頷いた。

国は違えど、王族同士、交流はあるらしい。そう言えば、風汰とは違い、この二人の後ろには、数人が付き従っている。

朱理は、なんだか別世界を垣間見たような、不思議な気持ちで、二人を見ていた。

《揃ったな》


唐突に、神の声が聞こえて、朱理は思わず自分の耳に触れた。他の3人も、それぞれ、思い思いの方向を見据えて、意識を集中しているようだ。

《火の一族の娘》

呼びかけられた朱理は、ひゅっと息を吸い込んだきり、呼吸ができなくなった。


《お前の力が、目覚めようとしている》


いつの間に傍に来たのか、父が、自分の肩をぎゅっと抱いたことだけはわかった。

だけど、神の声の言うところを理解するのに、時間がかかる。

私の力が、今から目覚める、と?これ以上、強まると言うことなの?

そこに思い至った時、朱理は愕然とした。


《そなたの力を抑えねば、この4つの国の均衡は崩れ、世界は破滅する》

人を、傷つけるだけじゃない。

世界が破滅するなんて。

朱理は、耳鳴りに耐えかねて、強く耳を押さえたけれど、神の言葉を遮ることはもちろん、ぐわんぐわんという不快な音を抑えることもできない。

聞きたくない。

聞きたくない。

そう強く思っていたせいか、それからは、何を言われているのか、ほとんど理解が追いつかなかった。


《火の一族の娘は、水の一族の王子と、婚姻関係を結ばねばならぬ》


父の手が、ぴくりと動いた気がする。


《本来ならば、互いの力を打ち消し合う関係は望ましくないが、お前たちの強過ぎる力を抑えるためには、致し方あるまい》

力を、打ち消し合う?
《そして、風は火を大きくすることを、水は土を育てることを、忘れるな。近付き過ぎてはならぬ》

何を言っているのか、とうとうわからなくなってしまった。

《火の一族の娘、水の一族の王子、風の一族の息子、土の一族の姫、4人それぞれが、自らの役割を自覚せよ。世界の破滅を避けるため、直ちに行動を起こせ》

それきり、神の声は聞こえなくなった。
「おい、いつまで腑抜けた顔をしてるつもりだ」

低い声に、顎を掴んで上を向かされた先にある、濃い青の瞳に、ようやく朱理は我に返った。

「それでも、火の一族の末裔か」

うんざりした顔で、言い捨てたのは、青英だ。慌てて、朱理は後ずさりして、その手から逃れた。


この人、…今、私に触れていた?素手で?

神の声を聞いてから、意識が混濁していたから、幻覚だったんじゃないかと朱理は思った。

ふと、あたりを見回すと、さっきまで青英とともに話し込んでいた風汰も千砂も陽輔も、今は言葉を発することなく、静かにこちらを見ているだけだ。


「こんなに髪が短い女」

青英が、朱理を見て呟いた。水の国の女性は、皆、髪が長いのだろうか。

朱理は、その冷たい目と、人を馬鹿にしたような声音に、頭の中が熱くなってくる気がした。何といっても、この短い髪は、朱理の最大のコンプレックスだ。

この人が、一国の王子?風汰の方がよっぽど礼儀正しい。朱理は、その言葉を口に出さないように、必死で耐えた。


「抱く気になるか?」

くすりと笑いながら、するりと朱理の頬を撫でる。

言葉の正確な意味はわからないものの、どうやら侮られているらしいと、朱理は気がついた。


すると、さっきまで堪えていた怒りが、弾けるように解放されて、彼女の心の中に燃え広がった。

ぱしんと反射的に青英の手を払ってしまったけれど、彼は熱がりもせず、相変わらず冷ややかな目で朱理を見下ろしているだけだった。


本当に、この人、私に触れても火傷しないんだ。

火傷を負わせずに済んだと言う安堵の気持ちと、その反対の、何の仕返しもできなかった悔しさとで、朱理の頬は真っ赤に染まった。
「威勢はいいらしい」

そう言うと、青英は、朱理の首の後ろに大きな手をまわして、引き寄せたから、朱理はバランスを崩して前に一歩足を出した。

ぺろり。

朱理は、呆然と目を見開いている。

そう、青英が舐めたのは、朱理の唇。

「ちょっと味見だ」

味?味、見……。

朱理は、そんな青英の言葉の意味を、考えてみるけれど、料理にしか使わない言葉の様に思える。


あっさりと離れて、おもしろそうに朱理の顔色を見ている青英。混乱していた朱理の気持ちが再び、一気に沸騰。

からかわれてるんだ、そう思うと、さっき以上の怒りがこみ上げて来た。

「何するの!」

掴みかかる朱理の両腕は、すぐに青英に捕らえられてしまう。
「気が強い女だな、お前は。まあ、力は弱いけど」



人の肌って、こんな風だったっけ。

記憶をたどるけれど、思い出せるはずもない。朱理は、自分の忌むべき能力を思いだして、その感触を知った時の状況を思い浮かべる努力を放棄した。

人の肌に触れた経験なんて、父親を除けばほぼないのだ。


この人、本当に、私に触れても熱くないのか。

何度もそう思うのも、無理はないことだった。

朱理にとっては、誰かに触られている、この感覚が新鮮だった。怖いくらい生々しくて、朱理は身を震わせた。


くすり、と笑って、青英が朱理の両腕を離す。


「何だ、怖いのか?それとも、感じたのか?」
何が言いたいのかよくわからないけど、どうやら私は馬鹿にされてるらしい。

ただそれだけはなんとなくわかって、朱理が振りまわした手が、今度は運よく青英の頬にクリーンヒット。

パン!と派手な乾いた音がして、その場の空気が凍りついた。


「…とにかく、お前が世間知らずのじゃじゃ馬だってことだけはよくわかった」

青英の冷たい視線が、今度は突き刺さるように感じて、朱理は動けないでいる。

「連れて来い」と、彼女から目を離さずに青英は、背後に立つ側近に命じたが、彼らは一様に首を横に振った。


青ざめた彼らの表情に、事態を呑み込んで、青英は小さくため息を吐いた。

俺しか、このお転婆に触れることのできる人間がいないんだった。


「きゃあっ!」
悲鳴を上げる朱理へと、風汰は手を伸ばしたが、届かなかった。もとより、届いたところで、彼女に触れることはかなわなかったはずだが。

「ちっ」

横抱きにした朱理があまりに暴れるので、青英が舌打ちしたけれど、それは混乱する彼女自身の耳には届かなかった。

青英が面倒臭そうな顔で、「触るな!」と叫ぶ朱理をひょいと肩に背負いあげた。青英の背中側にぶらんと頭を下げられてしまった朱理は、さらにきいきいわめきながら、その背中を全力で叩いている。


「大人しくしないと、お前の父親が消える羽目になるぞ」


一気に心の中がしんと静まり返って、朱理は抵抗を諦めた。きっと、部屋の隅で、この一連の騒動を見ていたであろう、父親の気配を背中に感じながら。

そういう噂話を聞いたことは、朱理にだって、あるのだ。

神の声に背いた人間は、もっとも大切な人を奪われると。影も形もなく消える人もいれば、痛ましい姿になって帰ってくる人もいると。
私にとって、そう言う存在は、間違いなく父親しかいない、と朱理は思う。父親への思いのほとんどは、思慕よりも罪悪感だけれど。

自分が生まれたことによって、母親が死んだということを、彼女は知っているから。

無口で、ほとんど表情を浮かべない父親が、若い頃はそうではなかったということも。

知りたくないことの多くをいつの間にか、朱理は聞かされながら育った。ほとんど人前に出る機会はなかったにもかかわらず、その少ない機会に。


この礼儀知らずな男のところに行くしかないんだ、私は。

朱理はその結論を噛みしめながら、まだ激情をとどめた指先がふるふると震えるのをぎゅっと拳を握りしめてこらえることしかできない。

青英が、そのまま、歩き始めるから、朱理ははっとした。
「お父さん!」

首を反らせて、父を捜す。

「ありがとう」

これだけは、絶対に、言っておかないといけない、と、朱理は慌てて言った。


一瞬目に映った陽輔が、寂しげな目をしていたような気がしたのは、自分の願望を映していたのかもしれない、と朱理は思った。

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