身を焦がすような思いをあなたに
水の国の城
「とんだお荷物だな」
ちっ、と舌打ちした後にこう言われたら、朱理だってまた腹が立ってくる。
「じゃあ歩く」
走っている馬から降りようとして、後ろから青英に襟首を掴まれた。
「バカか、大怪我するぞ」
いいもん。
そう言いそうになったけれど、どうしたって、この男の国に行かなければならないのだと言うことを思い出して、ぐっとこらえた。
はあ。
盛大なため息が、自分の口からじゃなくて、背後で手綱を引いている、青英から聞こえてきて、朱理はまたむっとした。
「私の方がため息吐きたい」
つい、言ってしまった。
「なにが不満なんだよ」
青英が、冷たい目で見下ろしてくることに気がついたものの、朱理はもう止められなかった。
「お前みたいな偉そうなやつとこうしていること」
そう言うと、青英の顔がますます険しくなる。
「お前ってまさか俺のことを言ってるのか」
「他に誰がいるの」
「俺は一国の王子だ」
「私の国では関係ない」
「調子に乗るな」
「乗ってない」
「じゃあお前って言うな」
「それなら、私にもお前って言わないで」
朱理がそう言うと、青英が一瞬黙った。
「私の名前は、朱理。お前じゃないよ、青英」
刺すような視線に負けずに、まっすぐにその濃紺の瞳を見つめ返していると、は、と短く息を吐いて、青英が瞬きをした。
「気の強い、変な女。面倒くせえな」
そう呟いたけれど、もう言い合うつもりはないらしく、元通り、馬上で、朱理を前に乗せて馬を走らせる。
「あの塔に、何年いた?」
目の前の荒野が途切れ、少しずつ地面に草が見えて来た頃、唐突に青英がそう言った。
「気付いた時からずっと、何年も」
朱理がそう答えると、青英は少しの間の後、さらにこう尋ねた。
「父親と暮らしてたのか?」
今度は、朱理が考える番だった。
「お父さんの部屋は塔の中にあったけど、仕事が忙しいから、毎日は帰ってこなかった」
ほぼ毎日帰ってくることもあれば、遠くに出掛けて数週間戻らないこともあった。
「他に、塔に出入りしていた人間は?」
「風汰」
「どれくらいの頻度で?」
「毎日」
「毎日?」
「うん」
それで、聞きたいことは全部だったのか、青英は何も言わなくなった。
が、その代わりに、朱理に疑問が湧きあがってくる。
「どうして、そんなことを知りたいの?」
そう言って、青英の顔を振り返る。
「別に」
朱理は、目を丸くした。
「は?『別に』って、どういう意味?もしかして、『別に理由はない』ってこと?返事になってない!」
きっと、風汰だったら、「気になったからだよ」とか、「寂しくないかなと思って」とか、それなりの訳を言ってくれそうなものを。
「うるせえな」
そう言って、いらだたしげに、また舌打ちするので、朱理は青英を睨みつけて、前に向き直った。
嫌な人。
なのに、どうして私に触れても平気なんだろう。
そう思いながら、朱理は、この馬に乗るときの騒動を思い出す。
朱理を石造りの塔から連れ出すとき、青英の後ろに控えていた人間は全て、怯えた表情で彼女に触れまいとした。
水の国から来た彼らは、皆一人が一頭の馬に乗って、石造りの塔まで来ていた。当然、来たときと同じように帰れると思い込んで。
しかし、実際にはそうじゃなくて、朱理がひとり増えることになってしまった。
そうなると、誰かが朱理を自分の馬に乗せなければならない。しかし、案の定、その場にいる全員がはっきりと朱理を拒絶した。
朱理は屈強に見える彼らが、どう見ても自分を恐れていることに、悲しみよりもむしろ苛立ちと嘲りを覚えた。
結局、またしても、舌打ちとともに、朱理を馬上に抱きあげたのは、青英だった。
一応、朱理もナンネンソウの服とグローブを身につけているから、直接肌が彼に触れるわけじゃない。
それでも、皆が自分を恐れている。
けれど、この至近距離にいて、全く動じない青英の神経は、よっぽど太いんじゃないかと朱理は思う。
いくら、自分の能力が、朱理の能力を弱める作用があるとは言っても、彼女の力は神に世界を破滅に追い込むとまで言われたところなのに。
そう考えているうちに、なぜか、朱理はだんだん眠くなってきた。
馬が足を踏み出すたびに揺れるし、慣れないからお尻は痛いし、横になることもできない。
それなのに、やけに眠くて、朱理は不思議に思った。
ああ、駄目。意識が途切れそう。
「なんだ、お前、眠いのか。神経図太いな」
こちらが思っていたことと同じ感想を言われてしまう朱理。
「お前じゃなくて、あ・か・り。青英の方が、よっぽど、神経、太い、…」
冷たいのか温かいのか、よくわからないけれど、ここちよい弾力の人の体に包まれているという、この状況。
朱理にとって、記憶にあまりない、安心感をもたらしたようだ。前日からの睡眠不足も手伝って、彼女は、本来ならずいぶん珍しいであろう、水の国に至る道中の大半を見逃す羽目になった。
一方、朱理が目指す先の、水の国の城で。
美砂(みさ)は、早馬がもたらした知らせを聞いて、これが胸騒ぎの原因だったのだと思った。
噂に聞く、呪われた火の一族の娘が、この城へ来ると言う。しかも、青英と婚姻関係を結ぶように、と神の声が命じたなどと。
いずれにしても、神の声に逆らえるはずもない。たとえ、あの傍若無人な青英であろうとも。
大きく張り出したお腹を、ぽこんと何かが中から打ってくる。その信号に、美砂は自分の眉間のしわを消して、ようやく穏やかな表情を取り戻した。
そうだ。わたくしは、この子のことに集中しなければ。
美砂の知的な美しい口元が、弧を描いて、ようやく彼女らしい表情になる。
ぽこぽこ。ぐりん。
お腹の中で、子どもが動いたところを、手のひらで優しく撫でてやる。
「大丈夫よ」
そう呟いた自分の声が、まるで自身に言い聞かせているかのようだと、感じながら。
「大丈夫か」
城に着くなり、出迎えた美砂にそう声をかける青英に、美砂は一瞬目を見開いて、それからくすりと笑った。
「大丈夫です」
この人なりに、自分のことを気遣ってくれたんだろうと、美砂は思う。でも、長い付き合いでなければ、それだけしか言うことはないのかと責めたくなるんじゃないだろうか。
最初に一言、話しただけで、身重の美砂が彼の後ろをついて歩くのに、一度も振り返らない青英。それでも美砂は、彼がずいぶんゆっくり歩いていることに、気付いている。
この人のこういうところが、好きなんだわ、わたくしは。
美砂は、そう思う。
青英は産まれたときから、自分と結婚するように決められていたと、美砂は聞いている。
美砂が生まれたとき、水の国の王妃のお腹の中に男の子が宿っていることは、すでに周知の事実だった。将来、ふたりを結婚させようと、両国の王が考えたのも、無理はない。
元来、水の一族と土の一族は、相性がいい。
水は土を豊かにし、土が水の氾濫を防ぐ。その自然の摂理の通りだ。太古の時代から、水の国と土の国との間は、比較的友好であり、それは王族の婚姻で結ばれてきた。
美砂を一瞥しただけで、部屋に向かう青英の心中もまた、穏やかではなかった。
朱理という異分子を陣中に受け入れる羽目になったことはもちろんだが、《水は土を育てることを、忘れるな。近付き過ぎてはならぬ》と言った神の言葉が、胸に重くのしかかっていたからだ。
もし、その言葉を各国の人間に当てはめるとしたら。
自分と美砂との婚姻は、望ましくないのではないか。水が土を育てるとは、具体的に何を指さんとしているのか、今は分からないものの、不吉な予感がして、青英は城への帰路を急いだのだった。
体が弱く、身重の妻が、いきなり朱理と対面するようなことがあれば、お腹の子に障るのではないかと、早馬で先に知らせておいたものの、美砂の顔を見るまでは、それがよかったのかどうなのか、多少不安だった。
青英も、「大丈夫か」と思わず問いかける自分が、いつもの自分らしくないとわかっていて、笑みを見せる美砂に、小さくため息を吐いたのだった。
彼女との結婚は、政略結婚だ。愛してなどない。
常々、そう思ってはいるけれど、自分の置かれた環境への反発からくるその感情とは別に、幼いころから知っていて、こうして自分の子を宿してくれた美砂に対しては、やはりいくらか特別な気持ちを持っていると、青英は認めざるを得ない。
こうして、自分の部屋に戻って、着替えをするところまでは、ついてこない美砂を、やはり好ましく思うのだ。
彼女は、青英の心中をある程度理解しているのかもしれない。聡明な女だと、青英は思う。
だから、こうして、彼女の部屋に出向く気になる。
「おかえりなさい」
無言で部屋に入る青英に対して、鮮やかな頬笑みを浮かべながら、美砂はそれだけ言った。自分からは、今日の神の声の招集について、何も尋ねない。
青英は、この距離感を、美砂が守ってくれているから、彼女を丁重に扱えるのだと思う。
「面倒な奴を押し付けられた」
ため息混じりに青英が、そう切り出すから、今度こそ美砂はくすくすと笑いだした。青英は、美砂のその笑顔を見て、言うか言わないか迷っていたことを話すことに決めた。
「軟禁状態で育って、常識を知らず、感情の一部も欠落してる。美砂も気にしてやって欲しい」
青英といえども、美砂の気持ちに気がつかないわけじゃない。それと同じように、美砂も、青英がこの一言を迷いながら言ったことに気がつかないわけじゃない。
だから、美砂はにこりと笑って。
「わかりました」
とだけ、返事をした。心に少し吹いた冷たい風を、封じ込めて。
そして、青英にそう答えた以上、その火の一族の娘の面倒を見てやらなければならないと、ひそかに決意した。
「綺麗な、お姫さま…。あなたは、誰?」
目を丸くして、朱理がそう問いかけるから、美砂はさっきまでの心の中の葛藤がゆっくりと溶けていくのを感じた。
何も聞かされずに、ここに来たのだろう。朱理に与えられた一室に踏み込んで、美砂はそう確信した。
もしかして、一晩中泣いていたのだろうか。
使われた様子もないベッドをちらりとみて、もう一度、大きな赤い目で自分をまじまじと見つめてくる朱理を、美砂は見つめ返した。
「わたくしの名は、美砂。姫ではなくて、皇太子妃。青英の妻よ」
そう言って、握手をするために朱理の手を取ろうとすると、彼女が慌てて手を背中に隠したから、美砂はようやく少し微笑むことができた。
「大丈夫。わたくしは、土の一族の娘で、千砂の姉だから。土は、火を消すことができるでしょう?朱理、手を出してごらんなさい」
小さく柔らかそうな唇をぽかんと開いて、美砂の言葉を聞いた朱理は、こくんと頷いて、おそるおそる片手を出した。
握ったその手は、思いのほか小さくて細くて、とても全てを燃やしつくすと言われた娘のものとは、美砂にも思えなかった。
まるで、赤ん坊のよう。あるいは、無垢な子ども。美砂は、そう思った。
でも、握手を交わしたのは一瞬で、朱理はすぐに自分の手を引っ込めてしまった。
「美砂のお腹には、あかちゃんが、いるの?」
どうやら、自分のお腹を見て、何かあったら大変だと思ったらしい。美砂はそれに気がつくと、いよいよ朱理を憎めない、と感じたのだった。
こちらが名乗っても、自分の名前も言えない。そして、こちらの立場や血筋を明かしても、敬語の一つも敬称の一つも言えない。
なのに、この素直な娘の心の底にはちゃんと、人を気遣う気持ちはあるのだと。美砂は、気が付いてしまったから。
「は?なんだと?」
冷たい視線を突き刺してくる青英に、一瞬ひるんだものの、流(りゅう)は、落ち着いた声音で、もう一度繰り返した。
「ですから、今夜は一晩、朱理様と過ごされますようにと、申し上げました」
なんでそんなことしなきゃならないと、青英の顔に書いてあるような気がして、流は早口で付け加える。
「水か土の力を持つ人間が、触れる時間が長ければ長いほど、火の力を抑えることができると、古い論文に書かれてましたから。実験の記録まで残っていますよ。お読みになりますか」
これは本当のことだ。
青英が朱理を連れ帰ったのはいいものの、彼女をどう扱えばいいのか、皆考えあぐねていたのだ。
下手に接すると、自分が怪我をする。かといって、放置しておいても、城が燃える恐れがある。まさに、危険物なのだ、朱理は。
家臣が一晩中、喧々諤々の議論を展開している間、青英の秘書である流は、城の図書室にこもっていた。そのことは、青英も知っていた。
「その実験結果を参考に、私が算出した結果、おそらく2,3日のうち一晩、過ごされれば城が焼け落ちる可能性はほとんどゼロに近づきました」
その成果が、これか。青英は、またため息を吐くしかない。
「あ、どうやら、男女の関係を持たなくてもいいようではありますが」
「美砂には、誰かがつくんだろうな?」
鬱陶しそうな表情で、流の報告を遮る青英に、流がすかさず頷いて見せる。青英は仕方ない、という気持ちを丸出しにした憮然とした表情のままで、朱理に与えられた部屋に向かった。
「何しに来たの?」
ノックもせずに青英が部屋のドアを開けると、朱理は、そう言っただけだった。
「お前こそ、何をしている」
青英は、部屋の真ん中で、絨毯をはがした床の上に、膝を抱えて小さくなっている朱理に言い返してから、その理由に気が付いた。
「『別に』」
そう言いながら、くすりと笑う朱理に、青英は苛立ちとともに驚きを覚えた。
多分、何かを燃やしてはいけないと思って、ずっとこの状態で、部屋の中にいたのだ。それなのに、青英の冷たい言い方に対して、昨日青英自身がが言った言葉を真似て返事をする、なんて芸当をする。
芯も、強い女なのかもしれない。
「昼間、お姫様みたいな人が、挨拶しに来てくれたけど」
「姫じゃない。妃だ」
青英も、今日のうちに、朱理の様子を見に行くと美砂から聞いていたから、驚きはしない。
「わかってる。青英の奥さんなんでしょう?でも、お姫様みたいに綺麗だった」
そう言って、美砂の姿を思い浮かべているらしく、朱理の視線がぼんやりとさまよった。
「美砂はね、私と握手しても大丈夫だった」
そう言うと、朱理は、ふわっと微笑んだ。
敬称をつけるとか、肩書で呼ぶとか、そういう常識を一切知らないらしく、朱理は一貫して他人を名前だけで呼ぶ。初めはそのことにもいら立った青英だが、彼女の育った環境を思えば、無理もないのかもしれないと考えてはいる。
「青英は、何しに来たの?私を殺しに?」
朱理が微かに微笑んでいるから、青英は、彼女の言葉を、一瞬は、聞き違いかと思った。
「眠りに来ただけだ。お前もさっさと寝ろ」
青英は、朱理の目をまっすぐ見据えたままでそう答えた。だから、今度は朱理が笑顔を消して青英を見つめることになった。
「どうして?青英のお城や国が燃えてしまうかもしれないのに」
自分を殺すのかと尋ねたときにはなんともなかった声が、ここでわずかに震えているのが、青英は不思議だった。
「お前、馬鹿だな。自分の力をコントロールできるようになりたかったら、そんなもの一回焼きつくせばいいだろうが」
「え」
朱理がぽかんと口を開いたままで、青英の冷静なままの顔を見つめている。
「力の最大値を知らずに、力を制御できるはずねえだろ。俺は、この国を4回洪水で沈めたぞ」
おもしろくもなんともない、といった表情のままで、青英がさっさとベッドに横になって目を閉じたのを、朱理は信じられない思いで見ていた。
そう言えば、神は《お前たちの強過ぎる力を抑えるため》と言ったはずだ。それはつまり、朱理だけでなく青英の力も強過ぎるっていう意味だったんだ、と朱理は気が付いた。
「青英は、制御、できるんだ…」
朱理は、生まれて初めて、自分の未来に希望を持った。
「変な女」
青英は、腕の中ですやすや眠っている朱理の髪をそっと撫でた。案の定、全く目覚める気配はない。
あれから、熱心に、力のコントロールの仕方を訊いてきた朱理に、一通り説明をしてやった。そして、最後にこう付け加えた。
「とりあえず、お前には、自分で制御する他にも方法がある。一日おきに俺と寝ればいい」
嫌だと抵抗するだろうと思って、あえて意地悪くこういう表現を使った。それなのに、朱理は、花がほころぶようにあでやかに笑って、
「うん。青英と寝る」
と素直に答えた。
だから、青英は、思わず黙り込んでしまったのだった。
間違いなく、「寝る」のもう一つの意味を知らないのだと気が付いてはいたけれど。
「お前、簡単に男とベッドに入るなって、誰かに教わらなかったのかよ」
朱理の癖っ毛を撫でながら、青英はそう話しかけるけれど、当然返事はない。
「警戒心が強いのか、無防備なのか、どっちかにしろよ」
朱理は、その肩が一定のリズムで上下していなければ、死んでいるんじゃないかと思うくらい、静かに深く眠りこんでいる。
「お前、俺に殺されると思ってたのか」
青英は、そう呟いて、朱理の髪を撫でるのをやめた。