身を焦がすような思いをあなたに
人並みの自由
不思議な優しい肌触りの中で、朱理はまどろんでいた。
一昨日の晩は床の上で膝を抱えて座り続けていたから、ほとんど眠れなかった。そのせいか、今朝はなかなか、瞼を持ち上げることができない。
時折、覚醒しかける意識の中、あたたかくて柔らかいものが、自分を包んでいることを、不思議に思いながら。
「ん、あ、」
ようやくはっきりと目が覚めたときには、部屋にはさんさんと日が差し込んでいて、朱理はびっくりした。
「やっと起きたか」
って、ため息混じりの声が聞こえて、さらにびっくりした。
「ひゃあ!」
とっさに突き飛ばしてしまったらしく、その声の持ち主、青英はとげとげしい視線を朱理にぶつけてきた。「お前は、すぐに手を出すのをやめろ。ちゃんと言葉で言え」
そう言えば、青英の頬を殴ってしまったんだった、と思い出した朱理は青ざめながら、言葉を探す。
偉そうで、礼儀知らずなこの男に、いい印象はないけれど、私がしたことは確かにいけないことだろう、と結論を出してから、朱理は考えを巡らせる。どうして、彼を突き飛ばしてしまったのか。
「ごめんね。他人が、こんなに近くにいるのって、初めてだから、すごくすごく、びっくりしたから」
「わかった。でも、お前の力を抑えるためだ」
「うん。それも、今、思い出した。あんまりぐっすり眠ったから、青英のこともすっかり忘れてたんだけど」
「おい、お前な」
俺を忘れるってどういうことだ、って言おうとした青英だったけれど。
「ありがとう」朱理は、何を言うべきか、ということだけを必死に考えていただけだ。何もかも忘れてしまうくらいに、深く眠れたことに思い至って、そう言った。
きっと、それは、青英の皮膚の感触が心地よかったからだと思った。一昨日には、馬上ですら、眠ってしまったのだから。
「は?」
「青英が抱っこしててくれたから、よく眠れたみたい」
その歳で、抱っことは言わないだろうが、って言いかけたが、青英はその言葉も呑み込んだ。言葉はよく理解しているけれど、常識が欠けていて、うまく使いこなせていないのだ。
「もう少し、くっついててもいい?」
それも、普通の女なら、抱きしめてって言うだろう、って思ったけれど、それも口にしなかった。
声を震わせながら、うつむいて、自分の胸に頬を寄せた朱理を、はねつける冷たさまでは、青英も持ち合わせていない。
短い髪の間に指をすべりこませて、自分の胸に朱理の頭を埋めるように、押し付けた。
「ほんとに、熱くないの?」
「お前ごときに焼かれる俺じゃねえし」
そう言うと、小さな手でぎゅっとしがみついてくる朱理が、痛々しくて、青英は目を閉じた。王族としての執務をこなすために、自分の執務室へ行くべき時間がとっくに過ぎていることを、わかってはいるのに。
そのとき、コンコンと部屋の扉を叩く音がして、青英は、ため息を吐きながら、体を起こした。
「なんだ」
そうドアに声をかけて、朱理に「人前で横になるのは恥ずかしいことだ。起きておけ」と小さな声で告げた。
「私、流です。風の国の風汰様が、朱理様を訪ねておいでです」
ぼんやりとした顔で、まだベッドに腰掛けている朱理の髪を、手ぐしで整えてやった。腕を引いて立たせ、それから、ようやく部屋の扉を開く。
流は、部屋の入口に立つ青英の肩越しに、朱理の姿を認めた。
「今起きたところだ。少し待たせておけ」
「かしこまりました」
一昨日、白英石の塔で、激しい感情を見せた少女と同一人物には見えない、流はそう思った。こうして、落ち着いた様子の彼女は、小さくて細くて、今にも壊れそうな印象すら受ける。
「じろじろ見んな。焦げるぞ」
「失礼いたしました」
青英の冷たい視線に、流は軽く頭を下げて、部屋を去った。
「ひどい」
青英が振り返ると、さっきまでぼんやりとしていたのが嘘みたいに、強い眼差しを向けて来る朱理がいた。
「私だって、それくらいで、あの人を焦がしたりしない」
ああ、この目だ、と青英は思う。初めて会ったときに、あまりに強い印象を与える赤茶色の大きな瞳に、言葉を失ったことを思い出す。
あんなところに、長期間幽閉されていたにもかかわらず、彼女の目は死んでいなかった。
青英も、朱理にまつわる様々な噂話を耳にしてはいたものの、たいした関心を持ってはいなかった。ただ、記憶にないほどの幼いころから、あそこへ閉じ込められていたことを、朱理自身の口から聞いた今は、違う。
不自由な環境の中で、精神ばかりは自由だったような、朱理。
それは、まさに自分とは正反対の生き方じゃないかと、青英は感じていた。
「わかってる」
青英は、朱理の目から視線を逸らすことができないままで、そう答えた。
「じゃあ、どうしてあんなことを言うの?」
朱理の表情から、強い怒りが感じられる。
「ああ言えば、大抵の奴は、引きさがるだろうが。それともお前は、ああやって興味本位にじろじろ見られた方がいいのか?」
青英だって、朱理を見るだけで火傷を負うなんて、本気で思っているわけじゃない。朱理を好奇の視線から守るための方便のつもりだった。それも、わからないのだろうと思って、青英はそう言ったのだけれど。
「慣れてる」
朱理が、幾分、怒りを鎮めた顔で、低い声を出した。
「『それくらいで、あの人を焦がしたりしない』って言ったのは、『あれくらいの視線、どうってことない』って意味よ」
それは、青英の解釈とは異なっていた。
あの石造りの塔に朱理を閉じ込めて、父親である陽輔は、なんとかして娘を守ろうと努力はしていたのだろう。それでも、それは100パーセント、外敵を排除できたわけじゃない。
ごく稀に、外に出る機会を得たときに。あるいは、逆に、あの塔に来客があったときに。
朱理はいつでも、人の視線を感じてきた。
好奇だとか、興味だとか、そういった程度ならまだいい。いわれのない敵意に満ちた視線。あるいは、恐怖におびえる目つき。
それに耐えて来たのだ。
「そうか。よく覚えておく」
青英が、朱理の強い視線を受け止めたままで、静かにそう答えたから、ようやく朱理の顔から怒りが失せた。
そして、冷静な頭で考えて、気がついた。
「もしかして、庇ってくれたの?」
朱理が、大きな目を見開いて、青英を見つめてくる。青英は、心の奥まで見透かされそうだと思い、無意識のうちに、目を逸らしていた。
「庇うはずねえだろ」
「それって、庇ってないってこと?庇うはずないのに庇っちゃったってこと?青英の言葉の使い方って、いまいちわからない」
「どっちでもいいだろ」
「よくない。青英って、偉そうだし、口が悪いし、すぐに『ちっ』って舌打ちするから、意地悪なのかと思っ」
「喧嘩売ってんのか」
「まだ売ってない。意地悪なのかと思ってたけど、もしかして、優しいところもあったりす」
「しない」
「…だよね」
ことごとく、言いたいことを途中で遮られて、朱理は面倒になったから、青英の人格について問うことは諦めた。
そのかわりに、さっき部屋に来た人は、風汰が来てるっていったはずだと、朱理は思い出した。
「風汰に、会ってもいいの?」
そう尋ねたときには、元通りの世間知らずな子どものような、朱理だった。
「好きなときに会えばいい」
「え?」
「お前が会いたいときには呼べばいいし、行けばいい」
「ええ!?」
「…なんだ?」
青英は、あえて、朱理の驚きように気が付かない風を装った。内心、思わず笑い出しそうだったが。
「呼ぶって、どうやって?」
「手紙を出すか、早馬を使うか」
「行くって、どうやって?」
「お前が馬か馬車に乗って行けよ。いちいち俺に訊くな。自分で考えろ」
「私が考えてもいいの?」と、朱理がぽつりと呟いたけれど、青英は聞えなかったことにして、ようやく執務室に向かった。
一昨日の晩は床の上で膝を抱えて座り続けていたから、ほとんど眠れなかった。そのせいか、今朝はなかなか、瞼を持ち上げることができない。
時折、覚醒しかける意識の中、あたたかくて柔らかいものが、自分を包んでいることを、不思議に思いながら。
「ん、あ、」
ようやくはっきりと目が覚めたときには、部屋にはさんさんと日が差し込んでいて、朱理はびっくりした。
「やっと起きたか」
って、ため息混じりの声が聞こえて、さらにびっくりした。
「ひゃあ!」
とっさに突き飛ばしてしまったらしく、その声の持ち主、青英はとげとげしい視線を朱理にぶつけてきた。「お前は、すぐに手を出すのをやめろ。ちゃんと言葉で言え」
そう言えば、青英の頬を殴ってしまったんだった、と思い出した朱理は青ざめながら、言葉を探す。
偉そうで、礼儀知らずなこの男に、いい印象はないけれど、私がしたことは確かにいけないことだろう、と結論を出してから、朱理は考えを巡らせる。どうして、彼を突き飛ばしてしまったのか。
「ごめんね。他人が、こんなに近くにいるのって、初めてだから、すごくすごく、びっくりしたから」
「わかった。でも、お前の力を抑えるためだ」
「うん。それも、今、思い出した。あんまりぐっすり眠ったから、青英のこともすっかり忘れてたんだけど」
「おい、お前な」
俺を忘れるってどういうことだ、って言おうとした青英だったけれど。
「ありがとう」朱理は、何を言うべきか、ということだけを必死に考えていただけだ。何もかも忘れてしまうくらいに、深く眠れたことに思い至って、そう言った。
きっと、それは、青英の皮膚の感触が心地よかったからだと思った。一昨日には、馬上ですら、眠ってしまったのだから。
「は?」
「青英が抱っこしててくれたから、よく眠れたみたい」
その歳で、抱っことは言わないだろうが、って言いかけたが、青英はその言葉も呑み込んだ。言葉はよく理解しているけれど、常識が欠けていて、うまく使いこなせていないのだ。
「もう少し、くっついててもいい?」
それも、普通の女なら、抱きしめてって言うだろう、って思ったけれど、それも口にしなかった。
声を震わせながら、うつむいて、自分の胸に頬を寄せた朱理を、はねつける冷たさまでは、青英も持ち合わせていない。
短い髪の間に指をすべりこませて、自分の胸に朱理の頭を埋めるように、押し付けた。
「ほんとに、熱くないの?」
「お前ごときに焼かれる俺じゃねえし」
そう言うと、小さな手でぎゅっとしがみついてくる朱理が、痛々しくて、青英は目を閉じた。王族としての執務をこなすために、自分の執務室へ行くべき時間がとっくに過ぎていることを、わかってはいるのに。
そのとき、コンコンと部屋の扉を叩く音がして、青英は、ため息を吐きながら、体を起こした。
「なんだ」
そうドアに声をかけて、朱理に「人前で横になるのは恥ずかしいことだ。起きておけ」と小さな声で告げた。
「私、流です。風の国の風汰様が、朱理様を訪ねておいでです」
ぼんやりとした顔で、まだベッドに腰掛けている朱理の髪を、手ぐしで整えてやった。腕を引いて立たせ、それから、ようやく部屋の扉を開く。
流は、部屋の入口に立つ青英の肩越しに、朱理の姿を認めた。
「今起きたところだ。少し待たせておけ」
「かしこまりました」
一昨日、白英石の塔で、激しい感情を見せた少女と同一人物には見えない、流はそう思った。こうして、落ち着いた様子の彼女は、小さくて細くて、今にも壊れそうな印象すら受ける。
「じろじろ見んな。焦げるぞ」
「失礼いたしました」
青英の冷たい視線に、流は軽く頭を下げて、部屋を去った。
「ひどい」
青英が振り返ると、さっきまでぼんやりとしていたのが嘘みたいに、強い眼差しを向けて来る朱理がいた。
「私だって、それくらいで、あの人を焦がしたりしない」
ああ、この目だ、と青英は思う。初めて会ったときに、あまりに強い印象を与える赤茶色の大きな瞳に、言葉を失ったことを思い出す。
あんなところに、長期間幽閉されていたにもかかわらず、彼女の目は死んでいなかった。
青英も、朱理にまつわる様々な噂話を耳にしてはいたものの、たいした関心を持ってはいなかった。ただ、記憶にないほどの幼いころから、あそこへ閉じ込められていたことを、朱理自身の口から聞いた今は、違う。
不自由な環境の中で、精神ばかりは自由だったような、朱理。
それは、まさに自分とは正反対の生き方じゃないかと、青英は感じていた。
「わかってる」
青英は、朱理の目から視線を逸らすことができないままで、そう答えた。
「じゃあ、どうしてあんなことを言うの?」
朱理の表情から、強い怒りが感じられる。
「ああ言えば、大抵の奴は、引きさがるだろうが。それともお前は、ああやって興味本位にじろじろ見られた方がいいのか?」
青英だって、朱理を見るだけで火傷を負うなんて、本気で思っているわけじゃない。朱理を好奇の視線から守るための方便のつもりだった。それも、わからないのだろうと思って、青英はそう言ったのだけれど。
「慣れてる」
朱理が、幾分、怒りを鎮めた顔で、低い声を出した。
「『それくらいで、あの人を焦がしたりしない』って言ったのは、『あれくらいの視線、どうってことない』って意味よ」
それは、青英の解釈とは異なっていた。
あの石造りの塔に朱理を閉じ込めて、父親である陽輔は、なんとかして娘を守ろうと努力はしていたのだろう。それでも、それは100パーセント、外敵を排除できたわけじゃない。
ごく稀に、外に出る機会を得たときに。あるいは、逆に、あの塔に来客があったときに。
朱理はいつでも、人の視線を感じてきた。
好奇だとか、興味だとか、そういった程度ならまだいい。いわれのない敵意に満ちた視線。あるいは、恐怖におびえる目つき。
それに耐えて来たのだ。
「そうか。よく覚えておく」
青英が、朱理の強い視線を受け止めたままで、静かにそう答えたから、ようやく朱理の顔から怒りが失せた。
そして、冷静な頭で考えて、気がついた。
「もしかして、庇ってくれたの?」
朱理が、大きな目を見開いて、青英を見つめてくる。青英は、心の奥まで見透かされそうだと思い、無意識のうちに、目を逸らしていた。
「庇うはずねえだろ」
「それって、庇ってないってこと?庇うはずないのに庇っちゃったってこと?青英の言葉の使い方って、いまいちわからない」
「どっちでもいいだろ」
「よくない。青英って、偉そうだし、口が悪いし、すぐに『ちっ』って舌打ちするから、意地悪なのかと思っ」
「喧嘩売ってんのか」
「まだ売ってない。意地悪なのかと思ってたけど、もしかして、優しいところもあったりす」
「しない」
「…だよね」
ことごとく、言いたいことを途中で遮られて、朱理は面倒になったから、青英の人格について問うことは諦めた。
そのかわりに、さっき部屋に来た人は、風汰が来てるっていったはずだと、朱理は思い出した。
「風汰に、会ってもいいの?」
そう尋ねたときには、元通りの世間知らずな子どものような、朱理だった。
「好きなときに会えばいい」
「え?」
「お前が会いたいときには呼べばいいし、行けばいい」
「ええ!?」
「…なんだ?」
青英は、あえて、朱理の驚きように気が付かない風を装った。内心、思わず笑い出しそうだったが。
「呼ぶって、どうやって?」
「手紙を出すか、早馬を使うか」
「行くって、どうやって?」
「お前が馬か馬車に乗って行けよ。いちいち俺に訊くな。自分で考えろ」
「私が考えてもいいの?」と、朱理がぽつりと呟いたけれど、青英は聞えなかったことにして、ようやく執務室に向かった。