身を焦がすような思いをあなたに
城の中の鳥
「朱理?」

心配顔で、風汰が部屋に入ってきたとき、朱理は嬉しくて駆け寄ってしまった。走るなんて、いつぶりだろう。朱理は、自分の足取りの軽さに驚いた。

「風汰。遊びに来てくれたの?」

にこにこと嬉しそうに笑いかける朱理に、風汰は胸をなで下ろした。この二日、一体どうやって過ごしただろうと、心配し続けていたのだ。

あの塔を離れて、どうやって自分の力を制御しているだろうか、青英と衝突してないだろうか、食事は喉を通るだろうか、など、心配の種は尽きなかった。

「朱理の顔を見に来たよ。元気そうでよかった」

柔らかく微笑む風汰に、朱理は自分の心が緩むのを感じて、それまで無意識のうちに緊張していたのだと言うことに気付かされた。

「風汰。私ね、色んな物に触れるようになったんだよ!」

風汰は、朱理の様子に、思わず目を細めた。こんなふうに、自分の顔を見るなり、話したがることなんて、初めてだから。いつもいつも、そうやって話したいことを抱えて会うのは、風汰の方だった。
「そう。だから、そんなにお洒落してるんだね。よく似合うよ」

「え?」

風汰に言われるまで、そんなことにも気が付かない。まだまだ世間知らずは健在だな、と風汰は、以前と変わらない様子の朱理にも、くすりと笑いがこみ上げた。

「初めてでしょ、そんなドレスを着るのも」

「これ、ドレスだったんだ?」

朱理は、この部屋に備えつけられたクローゼットから、深く考えずに、1枚選んで着ただけだ。袖を通した後も、肌触りはつるつるして気持ちがいいけれど、袖口やウエストを絞ったデザインは、なんだか窮屈だと思っただけだった。

「そっか。ナンネンソウじゃない繊維の服なんだね」

長年の付き合いで、朱理が何を考えているのか、風汰には手に取るように分かる。


「大丈夫。おじさんは、元気にしてるよ。相変わらず、僕とはあまり話してくれないし」

そう言ってやると、朱理は一瞬、風汰の表情を探るように見た後で、ふっと寂しそうに微笑んだ。それは、あの塔の中で、朱理がよく見せる表情のうちのひとつだった。
風汰は、陽輔と朱理の親子が、不器用ながらも、お互いを心配し合っていることを知っている。うまく意思の疎通ができないふたりを、もどかしい気持ちで見守ってきたのだから。

「そう。元気な証拠だね。私、なんだか、お父さんの作った服が、着たくなっちゃった」

朱理が今度は笑みを消して、そう言うから。

「わかった。今度、預かってくるよ」


それにしても。綺麗だと、思う。

風汰は、思わずため息を漏らした。

朱理の赤みを帯びた濃い茶色の髪と、日光を知らない白い肌に、明るい桃色のドレスはよく映える。きっと、父親である陽輔だって、この色を目標にして、ナンネンソウの生地を染めていたはずだと、風汰は思う。

「何?石造りの塔よりも、このお城の方が、遠かったの?疲れた?」

朱理は、見当違いのことを言いながら、手を伸ばしてきたものの、躊躇してその手を下しかけている。
「うん。ずいぶん遠かったよ。正直に言うと、ちょっと迷ったし」

風汰は微笑んで、朱理のその手を取った。

風汰には、まだ朱理の肌は発火してるかのように熱く感じられるけれど。繊維や氷水を介さずに、朱理に触れられる奇跡に、風汰は心を震わせた。

それは、朱理にとっても、同じこと。風汰の手に火傷を負わせたことが、彼女の中では大きなトラウマとなっていたのだから。


「風汰。会いに来てくれてありがとう。私に触ってくれてありがとう」

「どう、いたしまし、て」

触ってくれて、の表現がなんだか直接的で、風汰はどきりとしたものの、なんとかそれを隠した。
「私ね、自由に風汰に会いに行っていいんだって」

「そっか。おいでよ、家に泊まりに」

「うん!あ、1泊でもいい?」

「いいけど、どうして?」

「2日のうち1日は、青英と寝ないと、力の制御ができないらしいの」

「……そ、そっか…」

にこっと無邪気に笑いかけてくる朱理が、どういう意味でその言葉を使ったのか、風汰は判断しかねて、曖昧に相槌を打つしかなかった。

あの神の声を聞いた日、朱理は、もうじき自分が生を終えるのだと思った。

一晩泣き続けたけれど、ほのぼのと明けて行く空を見たときに、その気持ちは不思議なくらいがらりと変わったのだった。


死が、怖いことではなくなった。物を破壊し、人を傷つける、この持て余し続けている能力を、永久に封印することができるから。

そして、もし天国という世界が実在するならば、対面することのできなかった母親に会って、お詫びの一つでも言えるのかもしれない、とこれまで妄想していたことが現実になる可能性にも気が付いた。

父親がいなくなったときが、その時だと思っていたけれど、それが少し早まったな、と思った。だから、朱理の心の中は、恐怖よりも、安堵に近い気持ちで満たされていた。


ところが、神の声は残酷にも、朱理の力が世界を破滅させると告げ、それを避けるために青英と結婚しろと指示したのだ。

この苦しみは、続く。


その現実を目の前にして、呆然自失の状態にあった朱理。

その傍らで、青英、風汰、千砂、陽輔が話し合ったのは、朱理の処遇について、だった。神の声は絶対だから、それに従うための方策を立てるだけなのだが。

青英は朱理を連れ帰り、その力を抑える具体的な方法を一刻も早く発見することを、他の全員から求められた。そして、千砂は、青英の元に嫁いだ姉に対する配慮を訴えた。最後に、風汰は、朱理を一人の人間として扱って欲しいと訴え、陽輔からは、娘に手出しするなとの要求が出された。


要するに、青英は、朱理を押し付けられただけでなく、それにまつわる様々な要求をのむしかない状況だったのだ。

しかし、その結果、こうして朱理は、風汰に会うことができるのだ。籠の中の鳥。私って、籠の中の鳥みたい。

いや、今では、それよりももっといいものだ、と朱理は思う。

籠は、狭い。白英石の塔にいたときの自分は、籠の中の鳥だと言ってもいい状態だったかもしれない。

「だけど、今の私は、…そうだな、城の中の鳥」

そう独り言をつぶやきながら、朱理は考える。この城の中で、自由に動いていいらしい。しかも、この城の管理下にあるならば、風の谷の風汰のところにも出かけることができるらしい。

朱理は勢いよく、倒れ込んだ。

「ああ、冷たい!なんて、この世界は綺麗なんだろう!!」

ここは、水の国の城の、中庭だ。そこは、今朝から一面真っ白だった。

そう。雪が積もったのだ。

朱理は、雪やみぞれが降るのを見たことはあったけれど、触ったことはほとんどない。まして、地面にこんなに積もっているのは、触るどころか見るのも初めてだった。
一人で眠って、目覚めた今朝、カーテンの向こうがやけに明るいと思いながら開けて、窓の外を覗いた朱理は思わず「雪―!!」と叫んだのだった。興奮状態のままで廊下を走っていたら、流に捕まった。

「朱理様。転びますよ」

「大丈夫!流、雪を触りに行ってもいい?」

流は、紅潮した頬をしている朱理に、目を細めて、「どうぞ」と短く答えた。

「え、いいの!?ありがとう!!」

子どものようににこっと笑うと、朱理はやっぱり走って行ってしまったから、流は思わず微笑んだ。

「雪に触れたこともない、か。危険人物って言うより、深層の令嬢って言う感じだな」

すでに姿のない朱理を思い浮かべながら、流がそう呟くと、すぐ後ろで低い声がした。


「変な興味持つなよ」


「滅相もございません、王子。…焦げると困りますからね」

振り返りもせずに、流がそう言ってくすりと笑いをもらしたから、背後に立っていた青英は、ちっと舌打ちした。

流を追い越して歩き出すけれど、笑みを浮かべたままの流がその後をついてくる。

「ついてくんなよ」

「執務室へ向かっているだけですが」

不思議そうな顔をつくり、流が微笑むので、青英は再び舌打ちした。

「先に行ってろ。俺もすぐ向かう」

「承知いたしました」

主の姿が執務室の方向を逸れて、廊下の角を曲がって見えなくなってから、「興味があるのは王子の方でしょう」と流は独り言を言って、くすくす笑った。
朱理は、自分の心が震えてるみたいだ、と思う。

純白の世界は、なんだか神々しい。水の国独特の、弱い日の光が、今日ばかりは、その白い色でまばゆさを増している。

そして、儚い。

朱理が触れると、雪はあっという間に溶けていく。

雪の上に寝転がると、すぐに朱理の体の形に雪が消えていった。何度も雪が残る場所へ移動を続け、朱理は、ずいぶんたくさんの雪を溶かしてから、気が付いた。

手のひらに雪の塊を載せてみる。すうっと溶けて水になったかと思うと、徐々に水蒸気になって消えてしまった。

今度は、別の意味で、心がぶるぶるする。いや、実際に、指は震えている。


「何やってるんだ」

低い声がして、朱理は肩をびくりと震わせた。
「ずいぶん溶けたな」

そう言う青英の顔を見上げて、朱理は、青英には雪景色がよく似合う、とぼんやりと思った。


「私、また何かを焼きそう」

青英は、朱理がかすかに震えていることに、ようやく気が付いた。

「なにがあった?」

「見ていて」

朱理は、さっきと同じように、手のひらの上で、雪の塊を消して見せた。


「その程度でビビるなよ」

鼻で笑って、青英が、ためらいもなくその手を握ったから、朱理はびっくりした。

「いいか。お前の力は、俺がいれば弱まるだろうが。いちいちビクつくな」

え!?こんな手を見て、ビクつかない青英の神経の方が問題ありだ、と朱理は思った。

「いや、青英は、もうちょっと恐怖心を持つべきだと思う、私に対して」
いくら、相反する力を持ってるとは言っても、万が一火傷したらどうするんだろう。ちょっとは自分の体の心配をした方がいいんじゃないか。朱理は、そう思う。

「お前なんか怖くねえし。人よりちょっと体温が高いだけだろ」

その熱が、指先から、青英に吸い込まれていくような感覚を、朱理は感じる。


「青英は、人より手が冷たいね。あっためてあげようか?」

握っていた手を、両手で大事そうに、朱理が取ったけれど、青英は「寒くねえし」と言い返す。

「お前の力が暴走しないようにしてやるよ」

その言葉を聞いてすぐ、朱理は、あの不思議な優しい肌触りの中に、自分が取り込まれた、と感じた。

あ、青英の体や腕が、私を囲んでるんだ、と朱理はようやく状況を把握した。

「今から寝た方がいいってこと?」
「バカ、こんな朝早くからまた寝れるか。俺は忙しい。これはただの応急処置だ」

「ありがと」

胸にくっつけていた顔をあげて、にこっと無邪気に朱理が笑いかける。

ガキかよ、と青英は思った。ガキじゃなきゃ、親しくもない男に抱き締められて、至近距離でにっこりできるか?いや、ガキか、そいつを男だと思ってないかのどちらかだな、と思い直した。


「青英の国は、綺麗ね」


そう呟く声は、どこか寂しそうにも聞こえて、無意識のうちに、青英は朱理を抱く腕に力を込めていた。


紙に触れてもいい。折ってもいい。
他の部屋に入ってもいい。ベッドでくつろいでもいい。
城の中庭に出てもいい。寝転がってもいい。
人と握手をしてもいい。もちろん、相手が怖がっていないならば。


そんなごく当たり前のことが、今までできなかったのだ。

朱理は、今のこの自分に許された小さな自由を、最大限、謳歌しようと思う。


ただ、この自由は、あくまで、青英に依存したものだと理解もしている。


青英が、神の声に逆らって自分を放りだしたら。あるいは、再び神の声が聞こえたら。

このささやかな自由は全て失われる。

その覚悟を持ったうえでの、城の中の自由は、あやうく繊細で、朱理を魅了している。

いつか、この環境を失うことがある気がする。朱理は、いつもそれを感じながら、目の前にある自由を大切に、味わっている。

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