君の知らない空
腕時計を見たら、時刻は8時50分。ここで彼を待ってから、既に1時間近く経っている。
あと10分だけ待ってみよう。
それで出て来なかったら、もう今日は諦めよう。
決意して顔を上げたら、ジムの自動ドアが開いた。
不意に胸が苦しくなる。
ドアから出てきたのは彼。
軽い足取りで階段を下りてきた。
いつものように黒いキャップに眼鏡を掛けて。
待っている間に、お礼の言葉を考えていたとはいえ、いざとなると何と声を掛ければいいのかためらわれる。
真横を通り過ぎた彼が、駐輪場へと向かう。キャップの下から覗いた髪が、濡れたように輝いている。
今だ!
私は立ち上がった。
「すみませんっ」
少しだけ、声が上擦っている。
私の声を聴くか聴かないかのうちに、彼は振り返った。ぞくっとするほど冷ややかな彼の目とあまりのタイミングの速さに驚いて、考えていた言葉が頭の中から消えていく。
その後の言葉が続かない。
いや、浮かんでこない。
こんなに間近で彼を見たのは初めて。
首を傾げた彼の目は、振り返った時よりも優しくなっている。
「昨日は、ありがとうございました」
彼の顔を直視出来なくて、ぐっと頭を下げた。