君の知らない空


芳しい風が、ふわりと頬を掠めた。


地面から足が離れて、体が宙に浮く。


「声を出さないで」


耳元で風が囁く。
懐かしい音色。
言われるままに口を噤んだ。


男性らのけたたましい怒声と足音が、弾け飛ぶように追い掛けてくる。風はそれらを容易くかわし、路地をひらりと駆け抜けた。


懐かしい香りをはらんだ風は私を抱き、さらなる暗がりへとくるりと入り込んでいく。私は固く目を閉じた。


ぴたりと風が止んだ。
追い掛ける男性らの声が、籠りながら近づいてくる。


抱かれた手に、ぐっと力が入る。


温もりと緩やかな鼓動を頬に感じながら、恐る恐る目を開けた。真っ暗な視界に微かに滲む光が、私を運んだ風の輪郭を映し出す。


闇が怖い。
再び目を閉じた。


私の鼓動はこんなにも速く高鳴っているのに、頬に感じられる鼓動はどうしてこんなにも穏やかなんだろう。


やがて男性らの声は遠く聴こえなくなり、辺りは静寂に包まれていた。時折、賑わう声が波のように押し寄せては消えていく。


それでも私を抱いた手は固く握られたまま。時間が経つのが、とてもゆっくりと長く感じられる。


乱れた息遣いが徐々に平静を取り戻し、息苦しさから解放されていく。
そっと目を開けた。


頬から温もりが遠ざかり、恐怖が蘇る。


「離さないで……」


こぼれ出た言葉は、声にならないほど小さくて。
それでも抱いた手に力強さを感じることが出来たから、急に涙が溢れ出した。



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