君の知らない空
彼の連れてきた部屋は、さっきよりもずっと狭い路地の奥にある小さな建物の一室だった。
部屋を出ると、私の自転車が置いてある。彼が部屋を出た時に、私の自転車を取ってきてくれてたんだ。
相変わらず路地には、何処からともなく賑やかな声が響いている。男らのいた危険な痕跡は、どこにも感じられない。
「乗って、近くまで送るよ」
自転車の後ろに私を座らせて、彼が漕ぎ出す。これって違反行為なんだろうけど。
風を切る彼の背中にしがみついて、彼の温もりとすり抜けていく風を感じている。軽やかで心地よい空気に包まれて。
何だろう、
懐かしさに似た気持ちが溢れてく。
私の家の近くで、彼は自転車を下りた。
「足、よく冷やして、なるべく早く病院行きなよ」
柔らかな声がじんと沁みた。
このまま離れてしまいたくない。
もっと話をしたい。
「本当に、ありがとうございました」
本当は引き止めたいのに、言葉に出来ない。
「うん、気をつけて。あそこには近づかない方がいいよ」
突き放すような淡々とした口調。
顔を上げたら、彼の目は冷ややかで穏やかな色は消えていた。
近づかない方がいい。
それは私に向けられた言葉のように思えた。
あの場所に対してだけでなく、
彼自身が近づくなと言っている。
彼の背中が遠ざかっていく。
もう会えないかもしれない。
嫌な予感を払拭出来ないまま、彼は暗闇の中に消えていった。