君の知らない空


扉の横に書かれてある名前を確認する。
『菅野』聞いたことのない名前だけど、ひとまずほっとした。


壁に背を当てて、耳をそばだてた。扉越しに聴こえてくる声を聞き漏らさないよう、息を殺して神経を研ぎ澄ます。


「君もしつこいなぁ、何回も言うが、私は何にも知らない。しかし毎日見舞いに来てくれることには感謝してるよ」


僅かな笑みを含んだような掠れた声は、いくらか年を取った男性だった。この声の主が、菅野というのだろう。
その声を追って怒声が響く。


毎日見舞いに来ているということは、彼と美香の父親だろうか。だとしたら彼は良い息子に違いないのだが、この病室の男性と姓が違う。
父親ではなかったら、いったい誰?


「労いはいりませんよ、今すぐ父がどこにいるのか教えて頂ければ、もう見舞いには来ませんから」


淡々とした穏やかな口調、柔らかな張りのある声はきっと彼だ。


病室の男性、菅野は美香と彼の父親ではないと分かった。
でも、父親がどこにいるのか分からないっておかしい。
行方不明? 失踪?
それとも菅野に教えてくれと言っているということは、まさか誘拐?
最悪な状況を想像して、胸の奥から不安と恐怖が込み上げてくる。


「どうして私が君の父親の行方を知っていると思う? 私は既に引退した身だ、しかも一月前からずっとここに引きこもっている。外の世界のことはさっぱり分からないよ」


菅野という男はやんわりと抑揚のない口調だが、まるで彼を挑発するようにも聴こえてひやひやする。また誰かの怒声が飛び交うのではないか、と身構えた。
しかし部屋は沈黙に包まれた。



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