君の知らない空
「だろうね……この自転車、僕のじゃない。弟に借りたんだ」
開き直ったように、急にさばさばした口調で話し始める。今までのやたら丁寧な口調が嘘のよう。
何だ、普通に話せるんだ。
驚きと共に引っかかったのは、『弟』という言葉。誰のことを言ってるんだろう。
周さんと小川亮は姓が違う。小川亮のもう一つの名前、いや小川亮に似た男性の名前は確か『杜亮維』だったっけ?
どちらにしろ兄弟なんて不自然だ。
「弟さん? 失礼ですが、名前は……?」
周さんがふっと笑って、私の顔を覗き込む。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと気づいたが、すでに遅い。
「弟の名前? 言わなくても知ってるだろ? 君の思ったとおり、これはアイツの自転車だよ、高山橙子さん」
ぞくっとするような冷たい目が私を見据えてる。体が竦んで動けない。恐怖が一瞬にして体に絡みついたようで、震えることさえできない。
どうして、私の名前を知っているの?
もはや目の前の自転車が彼のものなのか、彼が周さんの弟かどうかなんて、どうでもよくなっていた。
缶コーヒーを飲み干して、周さんが立ち上がった。自販機の横のゴミ箱に空き缶を捨てて、赤い自転車に手を伸ばす。
ハンドルを握り締めると同時に、周さんが振り向いた。
「もう、アイツに近づかないでくれる? 君まで危険な目に遭うよ? いい?」
黙って頷くのが精一杯だった。
周さんは最初に見せたのと同じ、柔らかな笑みを浮かべて私の頭に手を触れた。
「足、お大事にね」
周さんが漕ぎ出していく。
恐怖から解放されてく体が、小刻みに震え出した。