君の知らない空



やがて滑り込んできた電車の扉が開き、どっと乗客が降りてくる。


その波を避けて立つ彼は、落ち着いた様子で改札口へと流れていく乗客を見送っている。さり気なく私を後ろに立たせるのは、庇ってくれているに違いない。


彼の影に隠れる私は、顔を伏せていた。まさかとは思うけど、知ってる人が降りてくるかもしれない。


乗客の波が去り、歩き出す。車内に乗り込もうとした私の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んだ。


「橙子!」


胸を突き刺すような声。
衝撃に全身が凍りついて、足が止まった。


恐る恐る、声のした方へと振り返る。
そこには改札口へと向かう人波の中を逆走しながら、藻掻くように手を挙げている男性の姿。


目が合った瞬間、男性が助けを求めるような表情で口を開いた。


「橙子、待って!」


桂一が、私を呼んでいる。


とっさに顔を背けた。
発車のベルが鳴り響く。


ぎゅっと彼の手を握り締めると、彼が応えるように手を引いて、車内へと乗り込む。
私の姿を隠すように、彼が扉を背に立つと同時に扉が閉まった。


緩やかに電車が走り出す。
私の前には彼が立ち、ホームは見えない。あの人波の中からでは、桂一は電車に乗れなかっただろう。


脚が震えてる。
私は何を恐れているんだろう。
頭の中は真っ白で、何にも考えられない。


「橙子、大丈夫だよ」


彼が、ぽつりと呟いた。
繋いだ手に力を込めて。



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