君の知らない空
結局、ほとんど食べられないまま箸を置いた。桂一もさほど食べていないようだ。
「橙子、彼と付き合ってるの?」
桂一の優しい声が、胸を締め付ける。首を振るだけで、顔を上げることができない。
本当はもっと追及したいに違いない。桂一も苦しいのだと十分にわかっているから、どんな言葉を返せばいいのかわからない。
「もう会わないでほしい。彼とは関わらないで……橙子を危険な目に遭わせたくない」
桂一の声は力強さを増したけど、微かに震えている。
「橙子、顔を上げて。よく聞いて」
少しだけ視線を上げたら、桂一の手が私の前に差し伸べられている。ぐいと身を乗り出して、私の視界に映り込む。
「俺と、もう一度付き合ってほしい。必ず橙子を幸せにするから、あんな男とは二度と関わらないで、お願いだ」
桂一の縋るような声に、私は目を伏せた。
長い沈黙が続く中、人の気配を感じて目を開けた。テーブルの傍に人の姿が視界の端に映ったと思ったら、桂一が声を上げる。
「先輩、どうしたんですか?」
先輩と聞いて、背筋に冷たいものが走った。一昨日の夜、夕霧駅の高架下での出来事が恐怖とともに蘇る。
「邪魔してごめんな、大月、携帯見てないだろ? 呼び出しだけどさ、俺もちょっと食べてくわ」
窺うように顔を上げた私に軽く手を挙げて謝ると、先輩は桂一の隣にどかっと座った。
まるで、一昨日の事なんて知らないような雰囲気。
「お前ら、こんなに残したらダメだろ? なぁ、飲んでいい?」
と、けろっとした様子でメニューを広げる。本当に覚えてないのか、覚えてないフリをしているのか。
「先輩、しばらく酒は止めるって言ったでしょう、呼び出し入ってるなら止めときましょうよ」
「やっぱ、ダメ?」
先輩は拗ねたように口を尖らせる。私の事なんて眼中にない。