君の知らない空


私は夕霧駅を出て、歩き始めた。


陽射しは眩しくて痛いけど、風は気持ち良く感じられる。軽快に歩くうちに、焦りなどどこかへ吹き飛んでいた。会議に間に合わないことさえも、これから仕事に向かっているということさえも忘れてしまいそうなほど。


たまには歩くのもいいじゃない。


職場の最寄りの月見ヶ丘駅までは五つの駅がある。もうすぐ一駅目の南町駅だという時、目の前から自転車が近づいてきた。


自転車のことは詳しくないけど、あれはママチャリではない。きっとマウンテンバイクというものなのだろう。


鮮やかな赤い色が目を引く。


漕いでいるのは男性。道行く人の合間を軽やかに滑り、目深に被った黒いキャップの下から焦げ茶色の髪が風にそよいでいる。きりりと結んだ口元には、余裕と心地良さが感じられた。


私は、彼を見たことがある。


気づいた時には、既に彼は私の傍をするりと通り抜けていた。


あの時と同じ匂いが鼻を擽る。


追いかけるように振り向いたら、芳しい風を纏った背中が遠ざかっていく。


風は人波の中に紛れて消えていった。




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