こうして僕らは、夢を見る








涙雨が窓を叩く。夜の帷で独り。


美空 蕾は泣いた。


アスリート人生の終止符に。


高2の夏は悲惨なものと為る。










( 2 )




黙々と母さんが私の隣で林檎を剥いている。私は腫れた瞳をアイシング。声が枯れるほど泣いた昨夜。母さんは黙って私の傍に居た。



いったい病院生活も今日で何日目になるのやら。



どうせなら目覚めたときに言って欲しいと思った。きっと私の精神面を考慮してのこと。でも薄々は勘づいていた。中々脚が思うように動かないから。



担当医の言葉が頭で何度もリピートされる。もう涙は枯れたのか滴が出て来る気配はない。あれだけ泣けば充分か。



そう言えば先生には悪いことをしたな。



『ふざけんなっ禿げ親父!』



とか言っちゃったもん。あれ絶対鬘だよね?隠してたみたいだけど。悪気は無かったんだよ。



あ――――‥そうだ。





「母さん、帰っていいよ」





林檎の皮を剥く母に声を掛ける。



定番だよね。入院=林檎って。





「まだ帰らないわ」

「最近ずっと居るじゃん。一回くらい帰りなよ。父さん待ってるよ。ご飯作って上げな。絶対コンビニの弁当で済ませてるし」

「まだ帰りない。心配なの…」





私はギョッとする。



何故なら母が泣き始めたから。





「また蕾が死んじゃうんじゃないかって………っ」

「いや。死んでないけど」

「今回は不幸中の幸い。また危ない真似をして戻ってきてくれなかったと思えば………ううっ」

「可笑しいよ。1回死んだみたいに言わないでくれるかな?甦ったみたいじゃん」

「真面目に聞きなさい!さっきから煩い!感動の場面でしょ!?蕾も泣いて『母さん逝かないでっ』て言うところでしょう!?」

「何で母さんが逝くんだよ」





どっちかと言うと逝くの私じゃない?母さんピンピンじゃん。風邪も引かないエキスパートなのに。って言うか包丁危ない!昂奮するのもいいけど振り回さないで!





「ばかー………」





ズビーと鼻を啜る母さんに苦笑いを浮かべティッシュ箱を渡す。





「踏切に飛び込むなんて思わなかったわ。まさか蕾がここまで馬鹿だなんてママ知らなかった」

「うん。馬鹿だね」

「本当に馬鹿よ……電話来たとき吃驚したんだから。まさか見ず知らずの男の子を助けるために踏切に入るなんて……」





はぁーっと溜め息をつく母さん。その表情は切なげで胸が締め付けられる。





「破天荒な娘を持つママは大変。でも自慢の娘だわ」





赤くした目を細めて母さんは微笑んだ。





「自慢?私はもう―――――走れないのに」

「走れないから何?大会に出れないから?賞が取れないから?体育科に居れないから?陸上部に居ることが出来ないから?―…そんなの関係ないわ」

「………」

「どうであれ蕾が私の自慢の娘には変わりはないもの。命あっての物種。男の子の命を助けた蕾を蔑んだりしないわ」

「………私は一度、目を逸らしたの」





そうだ。私は一度目を逸らした。“自慢”?そんな大それた言葉を貰えるほど偉くない。私は大会を選んだ。男の子を見捨てんだよ?エントリーしようとするために。いま冷静に考えると最低じゃん。最低以外の何者でもないよ。





「蕾は蕾なんだから」

「え?」

「走ることが大好きな蕾が大会を取るなんて分かりきったことよ。だけど最終的には“走る”ことで助けた。最後の走りに後悔は?」





最後の、走り?



最後に見たのは青い空。



涙で視界が歪むとか見た青は――――――いままで見てきたなかで一番耀いていた。





「ない。遣りきったって言うか、満足した。走らなきゃ駄目だって思い込んで走ったのなんて始めてで、誰かのために走るのも始めてで、誰かの為に何かを為し遂げる事も始めてだったけど――――――――――悔いはない。私の集成だったかもしれない」


「ふふ。見たかったわ。蕾の集大成を」


「そのあと思いっきり轢かれたけどね。吹っ飛んだし」


「そんな瞬間見たらママは発狂しちゃうわ。きっとパパなんて禿げちゃうわ〜。気絶したパパが病院に運ばれそうじゃない?」


「これ以上禿げても困るけどね。気絶どころか泡噴きそうで怖い!轢かれた私より重症患者だよ」


「パパは気弱だから。蕾のこと大好きだもの。勿論ママも。いつもパパ嘆いてるのよ?それにパパが通販で変な数珠みたいなの買っちゃったのよ!?万病も治る力が籠められた数珠とか言うやつ!」


「……………それ悪徳商人っぽくない?」


「“っぽい”と言うより悪徳会社よ。次の日会社が潰れていたの。大金を騙し取られて1つの数珠だけが家に届いたわ。懲りずにパパはその数珠を毎日肌身離さず持ってる。経を唱えて拝んでるし」


「……………父さん」





私も母さんも遠い目をする。昔から悪徳セールスマンに引っ掛かってたからな。人柄の良さと押しに弱いところが仇になって悪徳会社から格好の餌食だ。その度母さんが頭に角を生やしていた。美空家の主導権は母さんにあるからね。流石鬼嫁。



母さんは私の頭に手を添える。頭を撫でて貰うなんて何年ぶりだろう。小学生ぶりかな?





「“これから”蕾は勉強を頑張らないと。猛勉強しなくちゃね」

「うわっ。最悪!勉強とか中学の半ばぐらいから真面にしてない。絶対に着いてけないよ…」

「大丈夫よ。蕾は努力家だから。ゲームしてたときも必須アイテムが手に入らないとか言って徹夜してたじゃない?成せば成るわ」

「いやー……それは」





ゲームと勉強は天地の差がある。あれだよ!好きな音楽の歌詞は直ぐ覚えられるけど英単語は覚えられないってやつ。まあテスト週間になると慌てるヤツが大抵そう。



一気に覚えようとするから覚えられない。正に私の事。だって勉強する時間があるなら好きな事に遣いたい。私は夜の時間はジョギングが日課――――――もうそれも終わるけど。





これからは第2の人生かも。



泣いたって変わらない。悩んだって終わらない。心機一転。新たな道に踏み出すしか選択義ない。



膝の上に置かれた愛用のシューズを抱き締める。



頑張るから見守っててねっ。



このときはまだ。自らシューズを手放す羽目になるほど追い詰められるとは思わなかった。なかなか今の道から脱け出せず足掻くことも知らなかい。夢から離脱する事はそう簡単じゃない。





けっきょく、ポンコツなワタシ





「何かを失ってもそれが終わりじゃないわ。喩えそれが大切なものだとしても。まだ次がある」

「……うん」

「一歩ずつで蕾のペースで良いから前に歩もう。“今”を精一杯、生きましょうか」





ゆっくりと私は頷いた。



母さんの言葉に含まれる温もりは安らぐ。



悩むときもある。
落ち込むときもある。
挫けた日もあった。
めげた日もあった。



だけど落ち込んでばかりは要られない。



明日が来るから。



今日が駄目でも明日がある。生きている限り明日は来るから。なら何万回何千回と辛い日も来る筈。そのたびに今を生きるコトに疲れるかもしれない。



生きるって,大変。



人間誰しも窮地に陥るコトは一度はあると思う。それは生きているから。大変だよね?生きるって。だけど生きているから、感じられるんだよ。



けど支えてくれるヒトがいる。手を差し伸べてくれるヒトもいる。殻には閉じ籠もるな。いつだって1人じゃないということを忘れたら駄目だって―――――――――――母さんが教えてくれました。
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