Secret Lover's Night 【連載版】
「ちぃ」

扉をノックして声を掛けるも、千彩からの返事はない。そっと扉を開いてみると、机に向かった千彩が一冊の本を広げていた。

「ちぃ」

名を呼んで近付いてみても、千彩は頑なに本に視線を落としたままで。そんなに懸命に何を読んでるのだろう…と覗き込むと、キュッと結ばれていた千彩の唇が開いた。


「吾輩は猫である。名前はまだない」


これはまた難しい本を…と思ったものの、ふとあることに気付き、晴人はそっと後ろから椅子に座ったままの千彩を抱き締めた。

「難しい漢字、ちゃんと読めるんやな」
「ともとと…お勉強した」
「そっか」
「ゲーテも読んだ。ちさ、いっぱいお勉強するってともとと約束したから」

漸く反応してくれた千彩の頭に頬を寄せ、晴人はゆっくりと椅子を回転させて千彩の前へと座り込んだ。すると、椅子から降りた千彩がそこへ擦り寄って来る。それを再び抱き締め、ぐすっと鼻を啜る千彩の髪をゆっくりと撫でた。

「ごめんな、ちぃ」
「もう言わない?」
「ん?」
「けーちゃんのこと、どうでもいいって言わない?」
「おぉ。もう言わへん」
「めーしーのことも?」
「勿論や。マリのこともな」
「じゃあ許してあげる」

やっといつもの調子が出てきた。と、千彩の背をポンポンと撫でながら晴人は思う。

何も出来ないわけではない。自分にしか出来ないことがある。その言葉を何度も心の中で繰り返し、晴人はゆっくりと千彩の肩を持って体を離した。

「ちょっと話しよか」
「うん、いいよ。何のお話する?」
「せやなぁ…恵介の話しよか」
「うん!」

自分に向けてくれる笑顔を、今まで当たり前だと思っていた。だからこそ、漸く笑ってくれた千彩が愛おしい。愛おしくて堪らない。

「いっぱい喋ろ。おいで、ちぃ」
「はるー!」

両手を広げると、何の迷いもなくそこへ飛び込んで来てくれる。嬉しそうに笑って、自分に甘えて擦り寄ってくれる。それが「当たり前のもの」ではなく「自分が守っていくべきもの」なのだと実感した晴人は、ベッドへ千彩を引き上げて横になりながら話し始めた。

恵介が居て、メーシーが居て、マリが居る。仕事をして、一緒に夕食を食べて、酒を飲みながらくだらない話で更けて行く夜。

そんな仲間達との日常を話して聞かせながら、いつしか晴人は眠りに就いた。
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