辿りついた先は海
「秀人、生きてる?」
紺の声と一緒に風呂場特有の蒸された空気は逃げたして、代わりに乾いた冷たい空気が入り込む。静かに目を開け視線をあげれば、眠そうな表情の紺と目が合う。
一年中眠そうな顔をしている紺。まるで世の中の事なんて関係ないって風に。
そのクセ、その表情の下には誰にも負けない優しさを隠してる。
「夢を見てた。」
微笑みながら紺の方へ上体を向ける。
「ふーん…どんな?」
服を着たまま浴槽のヘリに腰掛けてくる紺。
心配して様子を見に来てくれたなら『風呂で寝るな』とか『危ない』とか言って来そうなものだけど、紺はそんな事絶対言わない。
どんな時でも俺の話しに耳を傾けてくれる、優しい紺。
「子どもの時に思ってた事。走るのが好きでね。いつまでも、どこまでも走って行きたかったんだ。」
気を良くした俺は紺が腰掛ける浴槽のヘリに腕を乗せアゴを乗せ、身体の力を抜く。
まるで夢の中のように。
「野原をかけて行き、森を越えて山を登る。林を抜けてどこまでも…。」
紺が持ってきたグラスを口に寄せる。相槌を打つように中の氷がカランとなった。
「そうやって走ってるんだ。人も街も追い越して。迷いも苦しみもない。すごく気持ち良くて…清々しい気分のまま走り続ける。」
正面を向いたまま耳を傾ける紺。その横顔が奇妙な程柔らかく優しい。つい口元が緩みニヤけてしまうが紺は気付かない。俺の声を求めてる。
俺はゆっくりと話を続ける。
「そしたらさ、海に着くんだ。誰もいない海。すごく綺麗な海なんだ。」
「…走った甲斐があったわけだ。」
間を置いて言った紺の言葉に頷く。
「だけど、俺は海に着いて思うわけ。"もう走れない" って。誰もいない綺麗すぎる海が俺の中を掻き立てる。何とも言えない思いが溢れて泣きたくなった。」

すごく寂しい夢だった…。

そうポツリと呟いた。
「今までの自分を早送りで見た感じ。まぁ現実では音楽の方で走って来たけど。…今になって海のデカさに立ち竦む事しか俺は出来ないんだ。」
“今”や“今まで”に不満は無い。…けど不意に巡る漠然とした思いがこんなにも自分を弱くするなんて…。

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