平穏な愛の落ち着く場所
『千紗さんっ!』
夏音の慌てた声に皆が千紗を見た。
『まま!!』
崩れるように座り込んで両手で顔を隠した
千紗に、紗綾が腕から飛び下りて駆け寄った
『まま、どうしたの?あたまいたい?』
『ううん、大丈夫よ』
『目眩がひどいのか?』
『違うの、平気だから』
『病院に戻ろう』
抱き上げようとすると、ぎゅっと手を握られて、静かに首を横に振られた。
『本当に大丈夫だから。それよりも、
やっぱり動物園に行きましょう』
『ダメだ!そんな体調で行けるわけない』
『平気よ、薬もあるし
私も久しぶりに行きたくなったのよ。
ほら、お医者様もストレスを発散した方が 良いって言っていたでしょ?』
千紗は立ち上がると紗綾を抱き上げた。
『さあや、パンダさん見たことないのよね』
急にどうしたんだ?
明るく言う表情は無理している様には
見えないが、涙の跡は隠しきれていないぞ。
俺が何かしたか?
何がおまえを泣かせたんだ?
『千紗』
名前を呼んだだけなのに、
潤む瞳で俺を見る、その微笑みにグッときて
言葉に詰まってしまう。
『行きたいの、お願い』
『だけどおまえ……』
『行きましょう!!大丈夫、お弁当たくさん
作ってもらったから』
突然、夏音が空気を変える様に
大きな声で言った。
『ありがとうございます』
千紗が笑顔で《よかったねー》とか《楽しみね》と、はしゃぐ二人の子供に言っている。
決定!と蒼真から和奏を抱き取り、夏音はさっさと車に乗ってしまった。
『俺たちにはわからないテレパシーだな』
ぽんぽんと肩が叩かれて、蒼真が俺にうなずいて車に向かった。
わけがわからない
夏音はどういうつもりだ?
千紗の体調をわかってるのか?
『私たち蒼真さんの車に乗った方がいい?』
『おじさんいっしょにいってくれないの?』
よく似た二人の瞳が俺を見る。
『馬鹿を言うな!』
紗綾を千紗の腕から奪って、クインを拾い上げてから、蒼真の車の窓を叩いた。
『犬を預けてから行く、中で落ち合おう』
『了解』
《後でねー》と和奏がうれしそうに手を振る
俺は隣にいる夏音に視線を向けてみたが、
そ知らぬ顔でかわされてしまった。
くそっ。
こいつは年下のくせに、時々母親みたいに俺を扱うんだ。
紗綾をチャイルドシートに乗せてクインのゲージを隣に置くと、スポーツカータイプの崇の車では、必然的に千紗は助手席になった。
『ありがとう』
車が走り出すと千紗は心から言った。
『無理をするんじゃないぞ』
『ええ』
さっき泣いていた顔は、穏やかな笑顔で
後ろの娘に楽しそうな声で話しかけている
後部座席の紗綾が童謡を歌いだし、クインが
ワンと吠える。
賑やかな車内はこれっぽっちも不快とは感じない。
隣から俺を見る視線を感じて、ハンドルを握
りしめた。
もどかしさと絶望感が胸を苦しくさせる
すぐそこ、
届きそうで手に入れられないもの
この先ずっと、それを求めて手を伸ばし続けている自分を想像して、崇は心の中で嘲笑った。