平穏な愛の落ち着く場所


『若奥様!……千紗様!』


後ろから息を切らしながら追いかけてくる人の声が、自分の名前を叫ぶのを聞いて、千紗は驚いて振り返った。


『南原さん?!』


『…はぁはぁ…やっと追い付きました』

彼は深呼吸して息を整えると、

『お久しぶりです』

礼儀正しくお辞儀をした。


スリーピースのスーツに大きな黒い鞄。

変わらない彼のスタイルを見て、
懐かしさに微笑みながら千紗も頭を下げた。


あれからまだ一年と少ししか経っていないというのに、野口の家にいたのは何年も前の
ことのように感じる。


『こちらこそ、ご無沙汰してしまって、
 お変わりなくお元気そうね』

『ええ、お陰さまで。
 若奥様は少しお痩せにならねましたね』

『もう若奥様じゃないわよ』

『そうでした、失礼しました。紗綾様は?
 お元気ですか?』

『ええ、ありがとう。あの娘この一年で
 身長が5センチも伸びたのよ』

『紗綾様はお産まれになった時も背が
 大きかったですよね。これからもどんど
 ん伸びるのでは?将来はモデルさんに
 でもなれるかな?楽しみですね』

『そうね』

当たり障りのない会話だけれど、こうして
娘の成長を知っていてくれる人がいるのは
嬉しいものだ。


南原良平(なんばらりょうへい)さんは、
野口の病院の顧問弁護士。
何かと訴訟を抱えてしまう病院において、
必要不可欠である彼は、とても優秀な人材だった。

千紗が一回り上の彼を信頼していたのは、
単に年齢が上で落ち着いているというだけではなく、冷静な判断とそのやり方に心を感じられたから。

だから野口と離婚を考えた時、彼に相談をしたのだ。

南原さんなら、病院側に立って留まるように説得するのではなく、理解し助けてくれるだろうと思ったから。

千紗の人を見る目に狂いはなかった。

離婚を切り出した途端に、荒れ狂う嵐の
大混乱になった野口家を逃げ出せたのは彼のお陰だった。

『南原さんがいなかったら、まだ私は
 あそこで地獄の日々が続いていたわ』

『若奥様、今日はその事で……』

『え?』

言い出しにくそうに渋い顔をする南原さんに
先日の野口とのやり取りを思い出した。

『あっ……』


野口の言うことは本当だったんだ。

南原さんは彼の弁護を引き受けたのね。


< 116 / 172 >

この作品をシェア

pagetop