平穏な愛の落ち着く場所
確かにここはマンションなんて立派なものじゃない。入口にオートロックがついていたのが奇跡だ。
崇が玄関チャイムを押す前に、愛ちゃんが
ドンドンと扉を叩いた。
『ちょっとーいるー?』
《あーちゃんだ!》と可愛らしい声がパタパタと駆けてくる音が扉の前で止まった。
『だれですか?』
その慎重な声を聞いて、崇を見た愛ちゃんが満面の笑みをする。
『あたしが躾たのよ、良い娘でしょ?』
『ああ』
うなずき返した崇の笑みに、愛ちゃんは気絶しそうになった。
ヤダ、もう!!!
千紗はこんなのどこに隠してたわけ?!
よろけそうになる7センチヒールの足に、
グッと力を入れてなんとか体勢を立て直した。
『お隣の愛ちゃんよ。さあや姫、お客さんを
連れてきたわよ』
扉を開けた紗綾は崇を見るなり飛び付いた。
『たかしゃん!!』
抱き上げた紗綾は、お風呂上がりなのかパジャマ姿で濡れた髪にタオルを巻いていた。
子供らしい石鹸の柔らかい香りがする。
その匂いを吸い込んだら、さっきまでのイライラが癒される気がするから不思議だ。
『くいんは?』
『今日は留守番してる』
『なあんだ』
『今日は保育園で何した?』
崇はいつの間にか、この小悪魔と話すのが
楽しみになっている。
『えっとねーまりせんせとおりがみして
りょうくんがおったはーとをさあやに
くれたんだ』
『りょう?確かこの前もその名を聞いたな』
渋い声で言って、崇の眉間に皺が寄る。
『うん!おままごとでさあやがままで、
りょうくんがぱぱやるっていったでしょ。
りょうくんちにはだっくしゅがいて、こん
ど、あそびにいくおやくそくしたの』
『遊びに行くときは俺が送ってく』
『ああんもう!』
愛ちゃんは口に手を当てて瞳を潤ませた。
『紗綾、何してるの?風邪引くから早く髪の
毛を乾かすわよ』
バスローブ姿の千紗はうつむいて髪を拭きながら歩いてきて、
『愛ちゃん、今日は仕事お休み?』
顔を上げて息を飲んだ。
『何してるの?』
慌ててバスローブの前をきつく閉める。
『それはこっちの台詞だ!』
『は?』
『おまえこそ、そこで何をしてる!』
『ここは私の家ですけど?』
『話は終わってないと言っただろ!』
険悪な空気を察して、愛ちゃんは慌てて紗綾を崇の腕から奪った。
『やめないさいよ、こんなところで!!
しかも子供の前だっていうのに!』
ハッして、二人は紗綾に謝った。
『ままたち、けんかしちゃだめよ』
二人がばつの悪そうな顔でもう一度謝る。
『すまない』
『ごめんなさい』
『この子は預かるから二人で話な』
『えっ!でも愛ちゃん仕事に行くところ
じゃ……』
『今日は休むわよ!』
片腕に紗綾を抱きながら、愛ちゃんはショルダーバッグの中から鍵を出した。
二人を見ることなく自分の部屋の扉を開ける。
『愛ちゃん、ごめんね!』
『すまない』
愛ちゃんは後ろ姿でうなずいて、玄関へ入った。
『あーちゃん、どしてわらってるの?』
『笑ってないわよ』
言ったそばから愛ちゃんは肩を揺らして
笑いだした。
不思議そうな紗綾の頬っぺたをつついて
安心させるように、ポンポンと頭を撫でる。
『さっ、アイスでも食べて気長に待つと
しようね』
『あいす!さあや、まっちゃがいい』
『はいはい、その前にお店に電話して、
姫の髪の毛も乾かしましょっ』
これから隣で始まるドラマを想像して愛ちゃんは、にんまりしながら家の中へ入った。