平穏な愛の落ち着く場所


『……崇さん?…どうして?』

『どうして、じゃないだろ?
 あんな電話しておいて』

寝ぼけ眼の彼女が何とも愛らしく
頬に当てていた手を動かして顎を掴み、
キスしたくなる。
その感情は、頬をつねる事で何とか
誤魔化した。

『痛っ、でん…わ?』

『俺はおまえに嫌われるような
 何をしたんだ?』

『あっ!!』

思い出した!と言う顔をしたとたんに、
千紗は立ち上がって、手に持っていた
クッションを投げつけた。

沢山の羽毛がはらはらと舞い落ちる。

『馬鹿にしないで!
 あなたに憐れんでもらいたくない!』

『落ち着け、なんの事だよ』

『この部屋のどこに家政婦が必要なのよ!』

『ああ、そういうことか』

『そういう事じゃないわ!私はここへきて
 いったい何をすればいいの?!』

『これはだな……』

『どうせ冴子に何か聞いたんでしょうけど
 私は自分の面倒は自分でみられますから
 どうぞご心配なく!』

『千紗、話を聞けって…』

『お金に困っている私に対する同情なんて
 今すぐに……んっ』

千紗は最後まで言わせてもらえなかった。
強引に引き寄せられて、
強く重ねられた唇は、驚きや懐かしさを
感じる前に、唐突に離された。

『黙れ』

瞳を大きく開いたまま、
千紗はこくりとうなずいた。

『いいか、俺は昨日までの三日間
 タイに出張していた』

『えっ』

『今朝の便で戻って、成田からそのまま
 会社に直行しているんだ。ちなみに
 出かける前に、ここは掃除してあった』

『そう…ですか……』

千紗は熱くなった頬を感じてうつむいた。

『それから、忘れているだろうが
 俺は家を散らかす方じゃない』

ハッとして顔を上げると、彼の口の端が
上がった。

そうだった!
彼は必要ないものは置かないし、
幼いうちにお母様と離れてしまったので
自分の事は出来るだけ自分でやる人だ。

『やっぱり私なんて必要ないわ』

彼から離れようとすると、腰に手が回され
頭の上に顎が乗せられた。

さっきから彼は、まるであの頃のように
私に触れていることに気づいているの
かしら?

懐かしい彼の香りに、ホッとしている
自分でさえわからないのに、彼の事など
わかるはずがない。

『仕事を始めた頃から、掃除、洗濯は
 一切していない、プロに任せてきた。
 それから、これからは家で
 コーヒーを飲もうと思っている』

千紗はチラリとキッチンの方を見た。

さっき確認した時には、
マシンどころかインスタントの
コーヒーすらなかった。

『せめて、朝のコーヒー位は自分の家で
 飲みたいと、最近 勇斗んちに泊まって
 思ったんだ』

『勇斗って、佐伯さん?』

『ああ、今は藤木だがな』

『そうだわ!さくらちゃんの旦那様に
 なったのよね』

『彼女を知ってるのか?』

千紗は微笑みながら彼を見上げた。

『ええ、学校の後輩ですもの……
 懐かしいわ、彼女元気かしら?』

結婚式の招待状が送られてきたけれど
あの時私は妊娠初期で、つわりもひどく
家から出させてもらえなかった。

『あっ、待って!!
 私、彼女のように美味しいコーヒーを
 淹れられないわよ』

彼女のコーヒーはお店が開ける。
昔、そう言って起業話に華を咲かせたのを
懐かしい気持ちで思い出した。

『いいさ、支度だけしてくれれば
 あとは自分でやるから。それに……』

彼が意味深な笑みを向けてきた。

『飲みたいのは、朝だと言っただろ?』

『そっ、そう……』

何故、彼に見つめられるだけで体が
こんなに熱くなってしまうのかしら……

『おまえが朝 淹れてくれると言うのを
 断るつもりはないが?』

『そんな事は言いません』

『そうか、残念だ』

そう言って顔を近づけられる。
腕に閉じ込められているから逃げ場がない。

『あの……崇さん?』

さっきのキスは、何とでも言い訳できても
この状況は違う。
両手を彼の胸に当てて、距離をとる。

『なんだ?』

『なんだ、って……何をするのかなと…』

『今さら言う必要があるのか?』

『そうではなくて……』

『なくて?』

千紗の頭はパニック寸前だった。
なぜ私が説明する側になっているの?

『あの……私たちそういう関係では……』

『ここにホクロがあるのを知ってるのに?』

腰から背中に人差し指が上げられて
肩甲骨の下の辺りで止まった。

『えっ?そんなところに……んんっ……』



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