ベイビー&ベイビー




 腕時計を見ると、すでに10時を回っている。 

 そろそろ外回りに行って、取引会社に少しずつ挨拶周りをしつつ、新しい担当者の紹介などをしていかなくてはならない。
 こんなこところで哀愁に浸っている暇などないのだ。

 時は一刻、一刻確実に進んでいく。
 それは無情なまでも、確実に。

 そして、変わらないものなど、この世には存在しない。

 時も場所も、人も、心も。
 刻、一刻と変わっていく。

 それは俺も同じこと。
 とにかく今は感傷に浸っている場合ではない。
 なんとか引継ぎをして今月中にはロスに飛ばなくてはならない。

 フーと息を吐き出して立ち上がり、会議室を出て行く。
 そして向かうは、俺の居場所。
 営業部営業一課。
 俺がその場に踏み入れると、一斉に皆が俺の傍へと駆け寄ってきた。 


「拓海先輩、会社やめちゃうんですか?」

「明日香先輩もいなくなっちゃうし、寂しいですよ」

「川野、お前水くせぇぞ。なんで突然相談もなしにやめるんだ」

「そうだ、そうだ。いくらsawaの重役だったとしても、一言先に俺たちに言うのが筋ってもんだろうが」



 課のみんなが、俺の突然の退職に動揺しつつも、皆が皆別れを惜しんでくれていた。
 正直、嬉しかった。

 ここでは。
 この沢商事、営業部営業一課では俺のことを、一人の人間として接してくれていた。
 もし、俺の本当の名前が沢だったとしても。

 きっとこの人たちは今と変わらない態度で接してくれていたかもしれない。
 
 
 俺は、ずっと探していたいたんだ。

 沢の家とセットで見られるのではなく、沢 拓海個人としてみてくれる場所を。
 そして、俺はやっと見つけることが出来たんだ。

 だからこそ、沢商事で勤めていた数年間。
 心穏やかでいられたのだ。

 しかし、俺はずっとこの場所にいることは出来ない。
 初めからわかっていたことなのに、思わず涙腺が壊れそうになるのをぐっと堪える。

 ふと視線を皆からはずすと、そこには寂しそうな表情の明日香ちゃんと、冷静なさやかが俺たちを見守っていた。

 二人も俺が沢 拓海だと知らないはず。
 なのに何故、あんなに驚かずにいられたのだろうか。





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