ベイビー&ベイビー




「……」

 でも、俺は少しだけ伸ばした手を引っ込めた。
 そうさせたのは、昔の辛い記憶。

 沢という家のせいで苦しめた人との思い出だった。

 明日香には、あんな思いさせたくはない。
 俺には、もう明日香に手を伸ばす資格などない。


 グッと拳を握り、押さえきれない感情をなんとか押し殺す。

 気がつけば、改札の前まで来てしまっていた。
 その場につくと、お互い無言のまま見詰め合っていた。

 言いたいことがあるのに、言えない。
 そんなもどかしい時間が二人を取り巻く。

 その空気を切り裂いたのは、明日香だった。


「じゃ、ここで」

「……うん」

「拓海くん、ロスに行っても元気でね?」

「ありがとう、明日香ちゃんも……元気で」


 俺がそういうと、明日香はとびっきりの笑顔で答えてくれた。
 最後にその笑顔が見れてよかった。

 俺は、きっと一人でロスに行くことが出来る。
 やっと決心が固まった気がした。

 もう、これで明日香と会うことはないかもしれない。
 涼太郎と結婚すれば、俺と会おうことを涼太郎は許すことはないだろう。

 これで最後だ。
 明日香の笑顔を見るのも。
 明日香の声を聞くのも。


「拓海くん」

 
 そう、俺に呼びかけてくれることも。


 すべてが最後だ。

 再び口を開くことが出来なくなった俺たち。
 ただ、ただ。
 改札の前で、人の流れに乗れず、ただ立ち尽くす。


「私、行くね」


 そういって明日香が俺に背中を向けて、改札を通ろうとしていた。
 
 俺は呆然とその後姿を見ていたが、気がついたら改札を通ろうとする明日香の手首を掴んでいた。




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