君にすべてを捧げよう
「彼氏、いるんでしょうか!?」


ずずい、と高梨くんが迫ってくる。その気迫に押されそうになっていると、話題の中心人物の声がした。


「あらやだ。めぐるちゃん、もう蓮から乗り換え?」
「え!? あ、うわ、瑞穂さん!」


そこには、いつものスーツ姿ではなく、ラフな服装の瑞穂さんが立っていた。
ジーンズに大き目のブルゾン、エンジニアブーツを合わせた少しごつめの服装は、宝塚の男役もかくやと思うほど麗しく、凛としている。


「やほー。これ、蓮に差し入れ。あがったら食べさせてあげて?」
「へ、何ですか、これ?」


瑞穂さんが手渡してくれたのは、地元の料亭『まひる亭』の、品のあるロゴの入った紙袋だった。


「お得意様だけが注文できる、まひる亭特撰水炊きセットよー。編集長の財布からだから、豪華よ?」
「おおー!!」


き、聞いたことがある。すっごくすっごく美味しいって。
コラーゲンたっぷりで、食べた翌日はお肌つるつるになるんだとか!


「瑞穂さん、すごい! これ、今晩一緒に食べましょうよ」
「えーいいの? ていうか、そのつもりで材料買い足してきたんだけどー」


もちろん、まひる亭に負けない位いい地鶏を買ってきたわよう、と笑う瑞穂さんに抱きついた。


「あ、あのう」


きゃっきゃと遊ぶあたしたちを邪魔するように無粋な声を漏らしたのは、存在を忘れ切っていた高梨くんだった。


「あ。高梨くんいたんだっけ、そういえば」
「ひどいです、めぐるさん……」
「あら。△△社の高梨さん。こんにちは」


さすがの瑞穂さん、きちんと覚えていたらしい。
美しい顔でにこりと笑いかければ、高梨くんは顔を真っ赤にして、もごもごと挨拶をする。
どうやら本当に、瑞穂さんのことが好きなようだ。


「えーと、高梨さんは、たしか結婚式に御出席されるんでしたよね?」
「あ、あ、はい。あの、佐伯さんも、ですよね? 出版社関係席でご一緒できると嬉しいんですが」
「ええ。でも、すみません。私、婚約者と一緒に友人席につくことになってるんです」


瑞穂さんが何の悪意もなく、どころか少し照れたように言うと、高梨くんの顔が、固まった。


「あ、あれ? 瑞穂さん、そうなんですか?」


聞いていなかったのであたしも驚いて訊くと、「知らなかったの?」と瑞穂さんがきょとんとした顔で言う。


「ええ。○○大学の関沢要(せきさわ・かなめ)。招待状出してたわよね?」
「え? あ、ええ。蓮や瑞穂さんの恩師の、教授ですよね」
「その人よー」
「ええ!?」


街中で一度だけ、お会いしたことがある関沢教授は、五十を目前にした、穏やかなロマンスグレーである。目立つ顔立ちではないが、上品で素敵な方だった。
蓮に紹介されたあたしを見て「かわいい御嬢さんだね」と微笑んでくれたときの、目じりに刻まれた皺がとてもあたたかく、柔らかくて、なんて素敵な年の重ね方なんだろうと思った。

関沢教授は確かに、人を惹きつける男性だった。

だけど、その人と、目の前の瑞穂さんが、婚約してる?
簡単に二人を結びつけることが出来なくて、戸惑ってしまう。


「え、えーと。瑞穂さん、いつ婚約なんてしたんですか? あたし、知りませんでした」
「ホント、ついこの間なのよ。十年がかりで口説いてやったわ。ようやく、私に陥落しやがったってわけ」


ふはは、と高笑いする瑞穂さんの顔が晴れ晴れと明るい。
逆に、高梨くんの顔は声をかけるのも躊躇われるほど色を失っていき、肩をがっくりと落とした。
そんな時、空気を読まない男が登場するのであった。


「おい高梨、書けたぞ! いい出来だ! ん、どうした? 仕事上がったんだから、惨めったらしい顔するな!」


気力をほとんど失った高梨くんをひっつかまえた蓮は、ひとしきり、どれだけ濃厚なセックスシーンが描けたか力説し始め(極限まで睡眠を削ったせいで、妙なテンションになっているのらしい)、

「お前のこだわりの×××(自主規制)シーンな、あそこは今回自信がある」

などと余計なことを言う始末(高梨くんは真っ赤になったり真っ青になったりしながら瑞穂さんを窺っていた)。

最後には朗読までしてみせようとしたので、瑞穂さんと二人がかりで止めた。
放心状態になった高梨くんは、原稿の枚数を数えるのも覚束ない有様で、挨拶と言う挨拶もしないまま、よろよろとタクシーに乗り込んで帰って行った。

なんていうか、全てにおいて可哀想な人である。
ほんの少しだけ、彼に対して優しくしようと思ったあたしであった。


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