君にすべてを捧げよう
蓮は、大怪我ではあったものの、命を取り留めた。
恐れていた後遺症もなく、数か月後には退院できた。

しかし、別人の如く、空虚になった。

喋らない。笑わない。動かない。
食事も与えなかったらいつまででも食べず、水すら満足に飲んでくれなかった。

綺麗にセットしていた髪もぼさぼさになり、無精ひげも伸び放題。
お風呂にも入らず、ただ息をするだけの人になってしまった。


勿論、創作など出来るはずもない。
愛用のノートパソコンも、手帳も万年筆も、全てゴミ箱に入っていた。


美恵さんは蓮の命こそ奪わなかったが、魂は連れて行ってしまったのではないかと思った。

余りの変貌に、誰も成す術がない。
蓮の両親は精神外来に連れて行ったり、高名な医師を探したりと奔走したが、それもあまり意味を成さなかった。


そんな折、蓮がぽつんと『杯根のばあさんの離れに行きたい』と言った。
それはあたしの家のあの離れのこと。

蓮が賞を取った作品は、あの離れで書き上げられており、蓮の大切な仕事場だった。
執筆中は誰の入室も許さず、それはあの美恵さんでさえ、許してもらえなかった。


蓮の両親はすぐさまあたしの母に連絡を取り、蓮は離れにしばらく住むことになったのだった。

その頃、あたしは美容学校の卒業を目前に控えていた。入店したいと強く希望していた美容室に採用も決まり、全てが上手く行っていた。
しかし、蓮が我が家へ来ると聞いたその日に、オーナーと学校に何度も謝って、採用を取り消してもらった。


働く前にすることがある。蓮を立ち直らせたい。


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