瞬きさえも忘れていた。
親に反対され、無理矢理引き離された最愛の彼女が、家出をしてまで岩本さんの元へ戻って来た、そういうことでしょ。
岩本さんと過ごした幸せな時の記憶が、何だか遠い日の出来事みたいに霞む。
「あの、私はこれで。お疲れさまでした」
たったこれだけの短い言葉を紡ぐのに、とんでもなく疲弊した。
陽奈乃さんは、隙間がないぐらいに岩本さんと密着したまま、顔だけを私に向けて、
「三階の人?」
子どもみたいな片言で尋ねる。
「いいえ。三階に住んでる人に用があって……」
咄嗟に自分の口を衝いて出てきた嘘に、泣きたくなった。
「失礼します」
愛想笑いを必死に浮かべ、二人に向かって軽く会釈をすれば、
「お疲れさま」
と。岩本さんから、穏やかな声が返ってきた。
その憂いた瞳が物言いたげに揺れる。
私は未練を断ち切るように踵を返し、落ち着いた足取りを意識しながら、三階へと続く階段を上り始めた。