瞬きさえも忘れていた。
「はい、別々で!」

すかさずそう答え、必死さと気迫で私の意に従わせる。


イタリアンのコース料理一食に、四千九百円は少々イタい。けれど、この際仕方がない。




やっと家に帰れる。

そんな、はちきれんばかりの期待と安堵を胸に秘めて、甲本さんの車の助手席に再び乗り込んだ。



けれど――


「どうする? これから」

車を発進させてすぐ、甲本さんがそんな風に聞く。



「あの、すみません、もう帰らないと。時間も遅いですし」


「えーいいじゃん。もう少しだけ、ねっ? だってまだ八時半だよ? 『遅い』って時間でもないっしょ?」


そう言ってこちらに顔を向けた甲本さんは、少年のような屈託ない笑顔を見せた。



人懐っこいその笑みが、私の警戒心をスルリと解く。


うっかり頷いてしまいそうになるも、だめだめ、また後悔することになる、と心の中で自分自身に言い聞かせて首を左右に振った。


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