禍津姫戦記
姫夜は磐座の柱のすぐそばで、ハバキの腕のなかに抱きかかえられていた。
 聞き覚えのある若者の声が叫ぶのが聞こえた。
「ハバキさま、砦から助けを求めるのろしがあがっております――きっとあのケガレ神が放った妖しが砦を――」
 違う。ケガレ神などではない――姫夜は叫ぼうとして、目を開いた。
「姫夜、戻ってきたか!」
 ハバキは姫夜をぎゅっと抱きしめた。ふいに体のなかで血が目覚めて沸き立った。
「ハバキ……」
 ためいきのように名を呼んだ。
「死んだかと思ったぞ。もうあの坂から引き返すことはできないのかと――」
 川も坂も消えていた。そして伊夜彦の姿も。あの甘い匂いもしなかった。あたりは乾いた汗と血潮と、鍛えられた鋼、火矢の焦げるにおいでいっぱいだ。
「立てるか……?」
「ああ……」
 ハバキは姫夜を抱き上げて立たせた。だが姫夜は大地をふみしめていることができず、ぐらりとよろめいた。その拍子にそばに血に染まった那智が横たわっているのを見つけて、姫夜ははっとした。
「俺をかばったときに、あの妖しにやられたのだ」
 ハバキがひくく云った。
 あちこちで兵士たちが倒れ伏し、血を流しながらうめいている。怒濤のように現実が押し寄せてきた。使い魔を残してきたと伊夜彦が云ったのは、このことだったのだ。
 姫夜は那智のそばにすばやくひざまづき、心臓の鼓動が打っているのをたしかめて立ち上がった。炎に焦がされ赤く燃える空を見上げ、しっかりとした声で云った。
「ハバキ、行こう。行って使い魔たちを封じよう」
「もう動けるか」
「ああ」
 振り返ったハバキの姿を、昇り染めてきた日が照らし出した。
白銀の鎧が朝日にあたって燦然と輝いた。
「ならば行こう」
 姫夜はうなづいた。
 モモソヒメがもたらした厄災をすべてこの手で終わらせなければいけない。
 二人は、ハヤテとイザヨイに飛び乗って朝日の光のなかにむかって駆け出した。
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