秘書の私、医者の彼
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2人しか入っていない6人部屋の、一番入口に近いベッドに河野を寝かせた斉藤は、カーテンでさっと間仕切る。
兄から譲り受けた腕のカルティエの時刻は深夜12時を回り、ロスの時刻はまだ午前6時頃だとすぐに計算してしまう。
腕時計は検査などで時に血や体液で汚れることもあるが、医師になってからの3年間、ずっと愛用してきた誰にも譲れない大切な物だ。
正確に動く針を見つめ、しばし、現実逃避するために思い出す。
17歳で医学部を受験、合格した。その時から既に兄は天才医師としてロスの国立病院で外科医として名を馳せていた。
兄が大学に合格したのは15歳の時。総合病院を経営していた父も、その時は鼻高々で周囲に自慢していた。
兄は医師になるべくしてなった男のように、20歳で既に医者として桜美院病院に勤務していた。
その兄と比べると、自分は随分落ちこぼれている。
8つも年上の兄の背中はいつも大きく、追いつこうと常にあがき、懸命に努力してきたが、ロスに発って離れ離れになってからは目標物を見失ったかのように、自分の方向性が間違っていないかどうか不安になることが多い。
月に一度くらい、電話で話をするが、最後に会ったのはもう2年ほど前になる。
外科部長に任命された兄は、ロスから出ることができず、自分自身も日本からなかなか出ることができず、たまには休みをとらないといけないと頭をかすめるばかりだ。
しかも、今日も休みを取り損ねた。
斉藤はようやく河野に目を落とす。
「起きてたのか」
いつからか分からないが、白い顔をした河野は目を開き、ぼんやりと周囲を見渡していた。
斉藤は額に掌を当て、更に、左手首の脈を測る。
「気分はどうだ?」
簡易椅子に腰かけながら聞く。
「…………喉が渇いて……」
気分はよさそうだ。
「少し待っていろ」
ナースステーションでドリンクの補給を指示し、ナースを連れてすぐに病室に戻る。
検温などをしている間、手持無沙汰によくよく河野の顔を見る。
年は確か2つ下だったか……、下らない同居生活だと思っていたが、今のところはそれほど悪いものではなさそうだ。
「あれ、坂野崎にやられたな」
聞きなれた声に、少し嫌な予感がしたものの、仕方なく後ろを振り返る。
「斉藤が手首切って運ばれたって聞いたから見に来たんだけど」
榊外科部長は白衣のポケットに手を突っ込んだまま無表情で澄まして言う。それが冗談なのかどうなのか、2年も付き合ってきたがいまだに分からない。
「俺は運んだだけだ」
「らしいね」
そのままふいっと行ってしまう。
坂野崎医師から面白おかしく聞いて、どうせ暇つぶしに見に来ただけだろう。
ただ、榊は海外勤務が長かったせいか頭が柔軟なので、話が分かり、勤務のことでは何かと助かっている。
おそらくそれはお互い思っていることで、今も若干心配してきたのではないかと、心の内では察しがついた。
「あの……入院するんですか?」
河野はこちらに向かって聞いたが、ナースが先に応える。
「そうですよ。明日といってももう今日ですけど、今日と、明日は入院してもらいます。順調なら火曜日には退院できますよ」
「結構深く切ったんですか?」
河野とは目が合っているが、またナースが割り込もうとしてくるので、
「そうだな、運悪く」
と、答えてやる。
「こんな夜遅くにお料理なさってたんですか?」
ナースが付いているんならいいだろうと、そろそろ帰宅することにする。
「はい……あ、そうだ。……先生」
「何だ?」
俺は最後のつもりで聞いた。
「親子丼、作ったんです。けど、破片が入っちゃったかも」
「あぁ……。じゃあ、俺は帰る。後を頼む」
親子丼に破片とはまた面倒なことになったもんだ。家の掃除もしなければいけないし。明日が休みなのが……幸いか。
廊下に出て、慣れた通路をしばらく歩いていて、はっと思い出す。
そうか、俺は今医師ではなく、患者側か……。
もう一度病室まで戻る。
と、部屋に入るなり、
「で、斉藤先生とまさか付き合ってないわよね? いやもう信じらんないわあ、深夜に親子丼作って手首切るだなんて。若い子の考えそうなことよ!」
下らない妄想してるのは、どいつだと、思い切りカーテンを開いてやる。
シャッという音と同時に、先ほどと同じのナースの、鬼のような形相が見えた。
「……下らねえこと抜かしてんじゃねえ」
硬直したナースは、どうにかか細い声で
「す、すみません……」
とだけ出す。
「自重しろ……もういい。上がれ」
ナースはおどおどしながらも、慌てふためき、「失礼します」と言い残し、バタバタと部屋を出て行く。
斉藤はふーっと大きく溜息をつき、河野の顔を覗き込んだ。
「…………、必要な物を取って来てやる。携帯か?」
河野は一部始終の流れに目を白黒させながらも、なんとか、頷く。
「着替えはここのを使え。他に何かあるか?」
「…………、今は、何も……」
微妙な表情でそう答える。思いついているようだが、言うのをためらっているようだ。
「とりあえず今から携帯だけ取ってきてやる。親にも連絡が必要だろう」
それだけしてやれば、後は親に任せればいいと思っていたが、
「あ……どうせ親は海外でいないし。携帯も明日でいいです。別に明後日でもいいし。明後日会社休ことだけ伝えれば構いませんから」
「…………、そうか。じゃあまた、明日来る」
昼、寝るには寝たが、さっきのごたごたでまた疲れた。日曜は当直、月曜はそのまま外来が当たっているし、今のうちに寝ておきたい。
斉藤は、凝った首をぐるりと回しながら、カーテンの外へ出る。
「すみません、ありがとうございます」
そのたった一言のために、自分は毎日寝る間も惜しんで働いている。
だがその、兄の教えのままでいいんだと、後ろも振り返らずに自宅へと急いだ。
2人しか入っていない6人部屋の、一番入口に近いベッドに河野を寝かせた斉藤は、カーテンでさっと間仕切る。
兄から譲り受けた腕のカルティエの時刻は深夜12時を回り、ロスの時刻はまだ午前6時頃だとすぐに計算してしまう。
腕時計は検査などで時に血や体液で汚れることもあるが、医師になってからの3年間、ずっと愛用してきた誰にも譲れない大切な物だ。
正確に動く針を見つめ、しばし、現実逃避するために思い出す。
17歳で医学部を受験、合格した。その時から既に兄は天才医師としてロスの国立病院で外科医として名を馳せていた。
兄が大学に合格したのは15歳の時。総合病院を経営していた父も、その時は鼻高々で周囲に自慢していた。
兄は医師になるべくしてなった男のように、20歳で既に医者として桜美院病院に勤務していた。
その兄と比べると、自分は随分落ちこぼれている。
8つも年上の兄の背中はいつも大きく、追いつこうと常にあがき、懸命に努力してきたが、ロスに発って離れ離れになってからは目標物を見失ったかのように、自分の方向性が間違っていないかどうか不安になることが多い。
月に一度くらい、電話で話をするが、最後に会ったのはもう2年ほど前になる。
外科部長に任命された兄は、ロスから出ることができず、自分自身も日本からなかなか出ることができず、たまには休みをとらないといけないと頭をかすめるばかりだ。
しかも、今日も休みを取り損ねた。
斉藤はようやく河野に目を落とす。
「起きてたのか」
いつからか分からないが、白い顔をした河野は目を開き、ぼんやりと周囲を見渡していた。
斉藤は額に掌を当て、更に、左手首の脈を測る。
「気分はどうだ?」
簡易椅子に腰かけながら聞く。
「…………喉が渇いて……」
気分はよさそうだ。
「少し待っていろ」
ナースステーションでドリンクの補給を指示し、ナースを連れてすぐに病室に戻る。
検温などをしている間、手持無沙汰によくよく河野の顔を見る。
年は確か2つ下だったか……、下らない同居生活だと思っていたが、今のところはそれほど悪いものではなさそうだ。
「あれ、坂野崎にやられたな」
聞きなれた声に、少し嫌な予感がしたものの、仕方なく後ろを振り返る。
「斉藤が手首切って運ばれたって聞いたから見に来たんだけど」
榊外科部長は白衣のポケットに手を突っ込んだまま無表情で澄まして言う。それが冗談なのかどうなのか、2年も付き合ってきたがいまだに分からない。
「俺は運んだだけだ」
「らしいね」
そのままふいっと行ってしまう。
坂野崎医師から面白おかしく聞いて、どうせ暇つぶしに見に来ただけだろう。
ただ、榊は海外勤務が長かったせいか頭が柔軟なので、話が分かり、勤務のことでは何かと助かっている。
おそらくそれはお互い思っていることで、今も若干心配してきたのではないかと、心の内では察しがついた。
「あの……入院するんですか?」
河野はこちらに向かって聞いたが、ナースが先に応える。
「そうですよ。明日といってももう今日ですけど、今日と、明日は入院してもらいます。順調なら火曜日には退院できますよ」
「結構深く切ったんですか?」
河野とは目が合っているが、またナースが割り込もうとしてくるので、
「そうだな、運悪く」
と、答えてやる。
「こんな夜遅くにお料理なさってたんですか?」
ナースが付いているんならいいだろうと、そろそろ帰宅することにする。
「はい……あ、そうだ。……先生」
「何だ?」
俺は最後のつもりで聞いた。
「親子丼、作ったんです。けど、破片が入っちゃったかも」
「あぁ……。じゃあ、俺は帰る。後を頼む」
親子丼に破片とはまた面倒なことになったもんだ。家の掃除もしなければいけないし。明日が休みなのが……幸いか。
廊下に出て、慣れた通路をしばらく歩いていて、はっと思い出す。
そうか、俺は今医師ではなく、患者側か……。
もう一度病室まで戻る。
と、部屋に入るなり、
「で、斉藤先生とまさか付き合ってないわよね? いやもう信じらんないわあ、深夜に親子丼作って手首切るだなんて。若い子の考えそうなことよ!」
下らない妄想してるのは、どいつだと、思い切りカーテンを開いてやる。
シャッという音と同時に、先ほどと同じのナースの、鬼のような形相が見えた。
「……下らねえこと抜かしてんじゃねえ」
硬直したナースは、どうにかか細い声で
「す、すみません……」
とだけ出す。
「自重しろ……もういい。上がれ」
ナースはおどおどしながらも、慌てふためき、「失礼します」と言い残し、バタバタと部屋を出て行く。
斉藤はふーっと大きく溜息をつき、河野の顔を覗き込んだ。
「…………、必要な物を取って来てやる。携帯か?」
河野は一部始終の流れに目を白黒させながらも、なんとか、頷く。
「着替えはここのを使え。他に何かあるか?」
「…………、今は、何も……」
微妙な表情でそう答える。思いついているようだが、言うのをためらっているようだ。
「とりあえず今から携帯だけ取ってきてやる。親にも連絡が必要だろう」
それだけしてやれば、後は親に任せればいいと思っていたが、
「あ……どうせ親は海外でいないし。携帯も明日でいいです。別に明後日でもいいし。明後日会社休ことだけ伝えれば構いませんから」
「…………、そうか。じゃあまた、明日来る」
昼、寝るには寝たが、さっきのごたごたでまた疲れた。日曜は当直、月曜はそのまま外来が当たっているし、今のうちに寝ておきたい。
斉藤は、凝った首をぐるりと回しながら、カーテンの外へ出る。
「すみません、ありがとうございます」
そのたった一言のために、自分は毎日寝る間も惜しんで働いている。
だがその、兄の教えのままでいいんだと、後ろも振り返らずに自宅へと急いだ。