秘書の私、医者の彼



 寝ていない顔だった。

 眠れないようだった。

 それくらい、斉藤は何かに追い詰められているようだった。

 重大な医療ミスでも起こしたのだろうか、それで人が死んだのだろうか、もしかして今は謹慎中なのではないだろうか、という妄想は、河野のなかでガス風船のように一気に膨らんでいった。

 仕事中、ディスプレイを目の前にふと、手が止まる。

 もしかして、今頃首を吊ったりしていないだろうか!?

 かなり飲んでいたし、酔いに任せて、血迷うこともあり得る。

 そう思ったらいてもたってもいられなくなかった。良い具合に本日社長は定時勤務だ。今日は橋台には悪いが、定時で帰らせてもらおう。

 そのためには、それまでに見合った仕事をしなければならない。

 河野は一気にキーボードの上を滑る手のスピードを速め、どんどん仕事を繰り上げていった。

「もうできたの?」

 橋台も驚くほどの集中力で、予定より一時間も早く仕事が片付いてしまった午後4時。このままいけば、間違いなく5時半には自宅に帰れる。

「あの……今日定時に帰りたくて……頑張りました」

「あそう。大丈夫。今日は充分帰れるよ」

 いつもの無表情で橋台は書類を確認し、サインをしてくれる。

「社長が飲みに行こうって言ってたけど、適当に断っとけばいいし」

「えっ、そんなの言ってました!?」

 よりにもよって、こんな日に……。いや、もしかしたら、医療ミスも首つりも勝手な妄想であって、今日の朝のことは、単に疲れで飲み過ぎた所を起こされて不機嫌だっただけかもしれないし、数日いなかったことだって、ただの仕事か、彼女の家に行ってたとか、全く関係のないことかもしれないけれど。

 でもやっぱり、今日の朝はいつもと少し様子が違っていた気がする。

「うん、行こうかなあって言ってたから、私はどっちでもって言ったけど。気にしなくていい、いい」

 ガチャリ、と社長室のドアが開いた。

 あまりのタイミングの良さに、確実に部屋の中で会話を聞いていたとしか思えなかった。

「さあて、どこ予約しようか」

 附和社長はこちらに近づき、いきなり会話の中心をとった。今日のスカイブルーのネクタイは実にさわやかで、髪の毛もそれらしくセットされているような気がする。

 長身のせいで、目を合せようとすると上目使いになってしまうが、それにも少し慣れた。

その附和の目は今、完全にこちらを捉えている。

 だが、河野はそっと逸らした。

「誰が参加するんですか? 河野さんは行かないみたいですけど」

「えっ、そうなの? 何か用事ある?」

 視線が益々痛い。

「あのっ、はい。約束が……ありまして……」

「あそう……じゃあ仕方ないね……」

 附和はくるりと向き直ると、再びドアを開けてすぐに中へ入ろうとする。

「今日はやっぱ残業するよ」

「えっ!?」

 河野は驚いて附和の後ろ姿を見、次に橋台を見た。

「他に参加できる人いないならね……」

 橋台と社長の2人きりで行くのはまずいと言うことか……。

「すみません、あの、でしたら、次回……」

 としか言いようもない。今日は定時で帰った方がいいに決まっている。

「河野さんがそう言うのなら仕方ない」

 附和はこちらを全く見ずに部屋の中へ入ってしまう。どうも機嫌は良くなさそうだ。

 パタンとドアが確実に閉まったのを確認し、数秒してから河野は橋台に聞いた。

「すみません、社長、怒ってましたかね……」

「いいのいいの。無視無視」

 って、無視って……。

「あ、帰る前に明日の準備だけしといてね」

「あっ、はい」

 だらだら話をしている暇はない。

 5時に帰ると決まった以上、やりきってしまわねばならないことが、まだ残っている。
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