秘書の私、医者の彼
癌
♦
斉藤の右腕は、硬い。
頭を乗せる度に思う。
そして、腕の先にある指。ほの暗いベッドの上で、その男らしい骨のある指を眺めるのが好きだ。
思わず、手が吸い寄せられる。
一回り大きな掌の上に自らの手を重ねる。
寝息が静かで起きているのか、寝ているのか分からないけれど、たいてい握り返してくれる。
そうしていると、待ちわびた左腕が私の身体を包む。
ただ、包まれているだけ。
撫でられることもなければ、抱きしめられることもない。
心地よい眠りに誘ってくれるだけ。
斉藤が仕事から復帰してから、最初の数日は昼勤だけだったが、そのうち夜勤が始まるようになり、1人で寝る夜が増えた。
仮眠室で横にはなるが、眠ったことはないという斉藤はとても仕事熱心で、朝帰るとすぐに自室で眠り込んでいる。
もしも仕事がなかったら、一緒に眠れるのにと思う。
思い切って、夜型の仕事に変えようかとも思う。
だけど、うまくいくはずもなく、河野はまだ秘書課に在籍していた。
あれから社長との仲は変わりない。今まで、熱い視線を投げられていたが、今考えればそんな気がしていただけかもしれず、はっきり言って社長と自分との間に何があったのかといえば大して何もないという答えが正解なのだと思うようになっていた。
今日もいつも通り出社して、自分のデスクの上を眺めてみても、社長の想いがどうだったかなんて、やっぱり自分には何も関係なかったのだと再認識させられる。
あの巽社長が放ったように「今度は秘書か?」程度のことだったのだろう。
代々続く附和家の跡取りが……そんなはずはない。
「おはよう河野さん、今後のスケジュールのことだけど」
橋台は挨拶もそこそこにさっそく仕事に入った。プライベートでは相変わらず小説を書いているようで奥が知れない。みんなが読んでいるのだから、私も読まなければと思うのだが何故かあまり興味が持てず、読まず終いになってしまっているせいかもしれない。
「どうだったんですか、昨日の検査」
ずっと暇そうにハンディモップで秘書室の書類棚を掃除していた須山がここぞとばかりに口を開いた。
「え、何の検査なんですか?」
河野は全くもって知らされていなかった不吉な雰囲気に、顔を顰める。
橋台は口元に手を当てて、小さな声で短く「癌」とだけ言った。
「え!?」
息のような声が、短く悲鳴のように出た。
「この前の健康診断で引っかかった再検査です」
須山が丁寧に説明してくれるが、河野は橋台の目をじっと見つめた。
「胃癌。でも治るらしいよ。手術すれば。だから、スケジュールの大幅変更が……」
河野は口を完全に手で覆い、黙ってしまう。
「大丈夫ですか?」
背を丸めて心配そうに顔を覗き込んでくれる須山の優しい声が、すぐ側で聞こえた。
「……びっくり、して……」
みんなを心配させてはいけないと、気を遣って会話を再開させる。
「胃癌か……」
須山はさっそくスマホで詳細を検索し始める。
「今週一週間検査や準備をして、来週手術。二週間後には退院予定だから」
「えっ、そんなもんなんですか!?」
須山と河野は2人同時に発した。
「って言ってた。何事もなければ。手術も枠開けてもらって早めにできるようにしてもらったらしい」
「一般市民には無理でしょぅけど、権力があればね」
須山は画面を見ながら呟いて頷く。
「いやなんか、知り合いがいたらしい」
「社長ともなれば、医者の1人や2人くらい知り合いがいるでしょう」
一体何様なのか、須山は変わらず上から目線だ。
「というわけだから。今週は特に忙しくなるから残業も覚悟しといてね」
「あ、はい」
『解放してあげる……』
社長の声が、急に懐かしくなる。
「胃癌って初期だと大抵治るらしいですよ。肺が死亡率ナンバーワン」
調べ終えた須山がデータを報告してくれるが、2人はあまり興味を示さず、
「社長、落ち込んでましたか?」
河野は橋台に聞いた。
「そんな風じゃなかったですよ。昨日の夜も、朝も」
橋台の代わりに須山が答える。車の中ではいつも一緒の須山はそう言うが、社長が須山に本心を見せるかどうかは怪しいものだ。
「うん……そりゃまあ、ちょっと切ない感じだったけど。別に取り乱す風でもなかったし」
橋台は少し首を傾げ、思い出しながら言う。
「……なんか、した方がいいですか?」
何をどうすればよいのか全く見当がつかなかったが、河野は何か力になりたいと思ったので橋台に指示を仰いだ。
「私も考えてて。胃切るとなるとしばらく食べられないから、みんなで食事でも行ければいいかなと思ったんだけど手術までの予定がもう一杯入ってるから無理」
「まあいいんじゃないですか。治ってから行けば」
須山は簡単に提案する、諦めの良い人だ。
「うん。食べられなくなるわけじゃないからね。それにいい医者だって言ってたし」
「有名な人なんですか?」
まさか、と予感しながら聞く。
「さあ、そこまでは聞いてないけど」
期待も空しく、橋台は輪から抜けて歩き始めた。
「さ、仕事しないと。仕事が減るわけじゃないからね。むしろ増えるくらいだから」
河野はその後ろ姿を見た後、社長室の扉を見つめた。
だからといって、自分ができることなど、何もない。
斉藤の右腕は、硬い。
頭を乗せる度に思う。
そして、腕の先にある指。ほの暗いベッドの上で、その男らしい骨のある指を眺めるのが好きだ。
思わず、手が吸い寄せられる。
一回り大きな掌の上に自らの手を重ねる。
寝息が静かで起きているのか、寝ているのか分からないけれど、たいてい握り返してくれる。
そうしていると、待ちわびた左腕が私の身体を包む。
ただ、包まれているだけ。
撫でられることもなければ、抱きしめられることもない。
心地よい眠りに誘ってくれるだけ。
斉藤が仕事から復帰してから、最初の数日は昼勤だけだったが、そのうち夜勤が始まるようになり、1人で寝る夜が増えた。
仮眠室で横にはなるが、眠ったことはないという斉藤はとても仕事熱心で、朝帰るとすぐに自室で眠り込んでいる。
もしも仕事がなかったら、一緒に眠れるのにと思う。
思い切って、夜型の仕事に変えようかとも思う。
だけど、うまくいくはずもなく、河野はまだ秘書課に在籍していた。
あれから社長との仲は変わりない。今まで、熱い視線を投げられていたが、今考えればそんな気がしていただけかもしれず、はっきり言って社長と自分との間に何があったのかといえば大して何もないという答えが正解なのだと思うようになっていた。
今日もいつも通り出社して、自分のデスクの上を眺めてみても、社長の想いがどうだったかなんて、やっぱり自分には何も関係なかったのだと再認識させられる。
あの巽社長が放ったように「今度は秘書か?」程度のことだったのだろう。
代々続く附和家の跡取りが……そんなはずはない。
「おはよう河野さん、今後のスケジュールのことだけど」
橋台は挨拶もそこそこにさっそく仕事に入った。プライベートでは相変わらず小説を書いているようで奥が知れない。みんなが読んでいるのだから、私も読まなければと思うのだが何故かあまり興味が持てず、読まず終いになってしまっているせいかもしれない。
「どうだったんですか、昨日の検査」
ずっと暇そうにハンディモップで秘書室の書類棚を掃除していた須山がここぞとばかりに口を開いた。
「え、何の検査なんですか?」
河野は全くもって知らされていなかった不吉な雰囲気に、顔を顰める。
橋台は口元に手を当てて、小さな声で短く「癌」とだけ言った。
「え!?」
息のような声が、短く悲鳴のように出た。
「この前の健康診断で引っかかった再検査です」
須山が丁寧に説明してくれるが、河野は橋台の目をじっと見つめた。
「胃癌。でも治るらしいよ。手術すれば。だから、スケジュールの大幅変更が……」
河野は口を完全に手で覆い、黙ってしまう。
「大丈夫ですか?」
背を丸めて心配そうに顔を覗き込んでくれる須山の優しい声が、すぐ側で聞こえた。
「……びっくり、して……」
みんなを心配させてはいけないと、気を遣って会話を再開させる。
「胃癌か……」
須山はさっそくスマホで詳細を検索し始める。
「今週一週間検査や準備をして、来週手術。二週間後には退院予定だから」
「えっ、そんなもんなんですか!?」
須山と河野は2人同時に発した。
「って言ってた。何事もなければ。手術も枠開けてもらって早めにできるようにしてもらったらしい」
「一般市民には無理でしょぅけど、権力があればね」
須山は画面を見ながら呟いて頷く。
「いやなんか、知り合いがいたらしい」
「社長ともなれば、医者の1人や2人くらい知り合いがいるでしょう」
一体何様なのか、須山は変わらず上から目線だ。
「というわけだから。今週は特に忙しくなるから残業も覚悟しといてね」
「あ、はい」
『解放してあげる……』
社長の声が、急に懐かしくなる。
「胃癌って初期だと大抵治るらしいですよ。肺が死亡率ナンバーワン」
調べ終えた須山がデータを報告してくれるが、2人はあまり興味を示さず、
「社長、落ち込んでましたか?」
河野は橋台に聞いた。
「そんな風じゃなかったですよ。昨日の夜も、朝も」
橋台の代わりに須山が答える。車の中ではいつも一緒の須山はそう言うが、社長が須山に本心を見せるかどうかは怪しいものだ。
「うん……そりゃまあ、ちょっと切ない感じだったけど。別に取り乱す風でもなかったし」
橋台は少し首を傾げ、思い出しながら言う。
「……なんか、した方がいいですか?」
何をどうすればよいのか全く見当がつかなかったが、河野は何か力になりたいと思ったので橋台に指示を仰いだ。
「私も考えてて。胃切るとなるとしばらく食べられないから、みんなで食事でも行ければいいかなと思ったんだけど手術までの予定がもう一杯入ってるから無理」
「まあいいんじゃないですか。治ってから行けば」
須山は簡単に提案する、諦めの良い人だ。
「うん。食べられなくなるわけじゃないからね。それにいい医者だって言ってたし」
「有名な人なんですか?」
まさか、と予感しながら聞く。
「さあ、そこまでは聞いてないけど」
期待も空しく、橋台は輪から抜けて歩き始めた。
「さ、仕事しないと。仕事が減るわけじゃないからね。むしろ増えるくらいだから」
河野はその後ろ姿を見た後、社長室の扉を見つめた。
だからといって、自分ができることなど、何もない。