秘書の私、医者の彼
♦ 
特に反応がなかったということは、巽社長に会うことにもおそらく反対はしていないのだろう。恰好悪いところを見せても大丈夫なくらいの友人なんだろう。

 河野は一度社に戻り、ファイルで巽の会社の住所や連絡先を調べてまずアポをとる。急用で社長からの伝言を預かったと正直に話すと、すぐに社に来てくれと返事があった。

 ほっと一息ついて、外に出る。

 タクシーで30分ほどかかる一等地に立てられたビルの中にある巽社長の会社は上場こそしていないものの、伸びている会社の1つだ。

 社長は一度顔を合わせただけだがクールな美形だった。話せば分かってくれそうなので、「元彼女」という単語に細心の注意を払えば事は進むかもしれない。

 溜息を吐くと同時にタクシーから降り、領収書をもらうとそのまま中へ入った。

 エレベーターに乗り込み、上へ上がる。

 巽社長が元彼女と連絡をとってくれれば話は早いのだが、そううまくはいかないだろう。

 深呼吸を深くして、まず秘書室へ入る。そのまますんなり社長室に通されたものの、息をすることも忘れるほどに緊張しながら、真正面奥に堂々とデスクを構える巽社長の端正な顔をしっかりと見た。

「附和物産の社長秘書室、河野です。先日は……」

「挨拶はいい。手短に内容を」

 巽社長はデスクから離れ、応接ソファまで出て来てくれる。

 私は座ることはせず、そのまま話を続けた。

「今附和社長は胃癌で入院しています。明日手術です」

 驚くだろうなと予想して早口で言い切ったが、全く動じず、

「末期か?」

 とだけ聞きながら上座にどさりと腰かけた。

「いえ……初期です。手術はほぼ100%成功するといわれています。胃の3分の2は切除する予定ですが、日常生活にそれほど支障はないそうです」

「……で?」

 その促し方は正解だ。

「ですが、附和社長はとても……気を病んでいらして。この世の終わりのような、落ち込みようで」

「用件だけでいい」

 忙しいのか、眉間に皴を寄せ目を伏せて指示する。
 
河野はこの、場違いなお願いを聞き入れてもらえないかもしれないという不安から一度間をあけたが、それでも言うべきだと思い切って口を開いた。

「…………、コウヅキアイさんの連絡先を教えてください」

 明らかに目つきが変わった。

「附和社長は手術が終わって目が覚めた時に、一番にその方の顔を見たいそうです」

 用件は、これだけだ。

「知らん」

 突然元彼女の名前を出されて、明らかに不機嫌になった。しかし、それが普通の反応だ。

「俺に聞く方が間違っていると思うがな。そんなものを聞きに、俺に秘書をよこしたあいつもどうかしている」

「申し訳ございません。ほぼ私の独断で来ました。私はその方のことを全く知らなくて。唯一巽社長と繋がりがあったということだけしか……」

「……ただの癌でそこまで気を病むとは、らしくないが。どうしても会いたいんだろう……」

 巽はしばらく宙を眺め、そして口を開いた。

「桜美院病院に榊医師という男がいる。その男に会えば、おそらく分かるだろう」

「あっ!! その方分かります!! 私、一度……確か、名刺ももらっています!!」

「ほぅ。それは奇遇だな。うまくいけば、目が覚める時に会えるかもしれんな」

「あっ、ありがとうございます!! 良かった。こんな近くにいたなんて!!」

 まさか同じ病院に知り合いがいたなんてという喜びから、巽が立ち上がりこちらに近づいてきていることに気付くのが遅れた。

「これから行くのか、桜美院に」

 かなり、近い。距離はもう1メートルもない。

「あ……附和社長が入院しているのも、その病院なんです。だから、戻って受付に聞いてみます」

 近くにいると背が高い。附和社長も同じくらいだが、それだけじゃない圧迫感のようなものがある。

 河野は気持ち半歩後ずさりし、頭を下げた。

「ありがとうございました。今日中じゃないともう間に合わなかったので……」

「手術は何時からだ?」

「午後一時からです。約5時間と予定されています」

「見舞いを送っておこう」

「あっ、ありがとうございます。あの、催促に来たようで大変申し訳ございません」

「いや、構わない。後で傷見せられて同情を引かれるよりはよっぽどマシだ」

< 26 / 30 >

この作品をシェア

pagetop