秘書の私、医者の彼

霞むほどささやかな再会


 手術室の前で5時間待つ。

 咳をすることも阻まれるような重い空気になったのは、附和社長の弟、文哉(ふみや)氏が「遺言は? 」と場違いなひと言を発したためであった。

 血縁者は会長と奥様、文哉氏とそれぞれの付き人の数人という内輪にしか知らされていなかったのには、文哉氏の動向を心配してのことかもしれないと察するほどだった。

 おそらく年齢は25程度。ピンクのカジュアルなシャツに柄のジーパンという派手な身なりに若い雰囲気が、両親の過保護が引き起こした末のドラ息子であることは見てとれた。

 会長は眉間に皴を寄せ、無言になってしまい、奥様も目を逸らしたまま。

 そんな中、文哉氏はスマートフォンを延々操作し続け、時折ゲームの効果音が聞こえる。

 手術中とライトが灯る中、長椅子に腰かけていた河野は小さく溜息をついた。

 予定ではあと2時間ほど時間がある。中でどのくらい事が進行しているのか分からなかったが、外にいる者の使命は待つことのみだ。

 奥様も腕時計を見て溜息をつく、みな思いは同じだ。

「奥様、コーヒーでも買って参りましょうか?」

 缶かカップしかないが、ないよりマシだろう。

「紅茶がいいわ。主人にはブラックコーヒーをお願い。文哉は? オレンジジュース?」

 この年になってオレンジジュースはないだろうと思いながらそちらを見ると、

「うん」

 と一言子供のように返事をした。

 どうやらオレンジジュースが好みらしい。

 河野は一旦息苦しい世界から解放されたことで大きく息を吐きながら売店へ向かうために、エレベーターに乗った。

 桜美院病院は国内でも屈指の名医が揃う病院として名高く、敷地も広い。手術室もここの棟だけでなく、他にもたくさんあるらしいことから、斉藤と会える可能性は低いだろう。

 違う意味での溜息を吐きながら、エレベーターから降りる。一階ロビーは広いものの人がまばらにいるため、賑わしい感じがした。

「亜美」

 驚いて右隣を見る。

「あっ!!」

 斉藤の存在に全く気付いていなかった自分に驚いた。

「3時か……あと1時間くらいで終わるんじゃないか?」

 エレベーターの外で待機していた斉藤は、腕時計を確認するなり手術の時間を読み取った。いつもの家での顔とは違う、完全にキメきった医師の表情に心臓は大きく高鳴る。

 後ろには若いナースがおり、「先生」とエレベーターの扉が閉まろうとしていることを示唆した。

「先に行っててくれ。……亜美、少し時間あるか? 」

 斉藤の熱い視線と同時に、後ろのナースのナメた突き刺さるビームのような目線が痛い。

「えっと……」

「先生、回診のお時間です」

「2分で終わる」

 斉藤は後ろに言い捨てると白衣を翻し、河野に目線で合図をした。

 河野はそれに続いて後を追うが、まるで躾けのなっていないナースのようで、全身をじろじろ舐め回すように見てくる。

「まさか勤務中に……」

 先ほどの堅い顔とは全く違う、いつもの柔らかな表情に取って変わったことに驚き、そして嬉しく思いながらこちらも顔を綻ばせた途端、

「あの……」

 と、女性に呼びかけられた。

「はい」

 再び斉藤は顔を変え、というより、思い切り不機嫌な表情に変わった。

「あんた、附和物産のとこの秘書だよな」

 私!? と驚いて、話しかけてきた女性の隣の男性を見る。

「まだ手術中?」

 数秒間が空いた。話しかけてきた男性には見覚えがある。というより忘れられないほど印象的な人物だったからだ。若くして四対財閥社長。四対家長男であり、パーティ会場の全客を虜にするほどのオーラを放つ誰もが羨む存在。手にしているフルーツ盛りも上等な物だと一目で分かり、それを持っていても浮くことがない。

 一度だけパーティで挨拶をしたが、まさか覚えてくれていただなんて光栄だ。

「あっ、はい。秘書室の河野です。あのっ、今日は……」

 隣の女性を見た。伏し目がちでこちらを見てはいないが、その儚げに揺れる睫が何よりも美人を物語っている。あの四対に釣り合うどころか飲みこむほどの存在感の女性は、一言だけ言って後は四対に全てを任せるつもりなのか黙って床を見つめていた。

「案内してくれる?」

「あっ、えっ、はいっ!!」

 咄嗟に返事をしたものの、四対社長がどこでこの話を聞いたのか……もちろん巽社長からだろう。それほど親しい印象はなかったが、日本を代表する四対財閥を味方につけておくことは何より心強い。

「そしたら、こちらのエレベーターで上がりますので……先生、失礼します」

 一応、斉藤に頭を下げておく。斉藤は目を開き驚いた表情をしたが、すぐに無言でナースの元へ戻った。

 女性、四対、河野、斉藤、ナースの5人で次にエレベーターが下がって来るまで待つ。

「手術は5時まで?」

 四対に聞かれ、河野ははきはきと答える。

「その予定です。今は会長と奥様とご子息が待合室でお待ちです」

「文哉が来てんのか……そりゃそうか。で、やってるのが榊さんだっけ?」

「ご存知なのですね。有名な方なので安心できると会長がおっしゃっていました」

「だって」

 四対は隣の女性を横目で見る。

「何?」

 女性はちら、と四対を見てから表示されている階数を見た。

「今日はその榊さんには会える?」

「ええーっと、どうでしょう……」

 何故会いたいのか全く意図が分からず、返事に戸惑っていると横から、

「術後の医師には一時間もすれば会えますよ」

と優しい声が降りかかってくる。

「あ、ありがとうございます」

 河野は視線で合図しながら斉藤に頭を下げた。

「会ってどうするんですか?」

 隣の女性が聞く。

「うーん……、ってそんな怒るなよ。可愛い顔が台無しだよ。愛ちゃん」

 四対社長は場違いにも楽しそうに笑い、河野も一度白けたが、次の瞬間驚いて女性を見た。

「えっ!? もしかして……コウヅキ、アイさん??」

「はい」

 目を見て即答され、焦った。

「あっ!! 申し訳ありません!! お顔を存じ上げなかったもので!! お礼が遅れました。本日はご足労大変ありがとうございます」

「あれ、知らなかったんだ。あ、俺が主体で来たと思ったわけ?」

 四対にそう言われ、

「はぁ、申し訳ございません。てっきり巽社長からお話が回ったのだとばかり……」

「いや、あっちとは関係ない」

 その素っ気なさと言ったらなかったが、まあ、事実関係ないのだから仕方ない。

 ポーンと軽い電子音が鳴り、5人はぞろぞろとエレベーターの中へ入る。

 その際、香月が河野の隣にいたので、横眼でちらちらと確認をした。

 年齢はいくつくらいだろう。二十代は間違いないが、それにしても落ち着いている。

 外見は申し分ない。

 その一言に尽きた。

 綺麗や可愛い、の言葉など全く必要ない。

 透明感があり、この世の全てを超越しているようなその大きな瞳。

 どの芸能人や女優よりも美しい。全世界の中でこんなに美しく均等のとれた女性がいるのだろうかと思えるほどだった。

 巽社長の元彼女。そして、附和社長が好いている女性。更に、四対社長をこれほど上機嫌にさせている女性。

 それにしても、四対社長と来たというのは……偶然だろうか?


「先生、田中さん、朝はとても顔色が良かったです」

 ナースがここぞとばかりに斉藤に話しかけている。

「あぁ」

 短く答える斉藤と、一度目が合ったがすぐに逸らされた。意図がつかみ切れない。

 エレベーターはまず8階で止まり、医師とナースを下ろして扉を閉めた。その際、ナースが河野に向かって少し頭を下げたことは忘れよう。

「胃癌って他に転移は?」

 四対社長は壁に背を預けてけだるそうにしているが、目だけはきりりとしていてとてもキマっている。

「検査の段階ではしていなかったそうです」

「あそう……。まあ、何より俺がいることに驚くだろうな」

「…………」

 香月さんは視線だけ上にあげて四対社長を見たが、すぐに伏せる。四対社長は何故か意地悪く上機嫌だが、一緒に来ること自体不本意だったようだ。

 ポン、と音が響き、3人は四対を先頭にエレベーターを降りる。

「そこを、まっすぐの突き当たりです」

 河野は案内しながら、会長らに四対が来ることを知らせていなかったことをどう説明しようか悩みながら歩いていた。

「おぉ!!」

 四対の声に気付いて顔をあげると角から文哉氏が出てきたところだった。

「あれっ? なんで樹(いつき)が??」

「なんで、もねーだろ。ほら」

 四対はフルーツを持ち上げて、見舞いであることを認識させた。

「えっ? でまた隣のモデルさんは、どうしたの?」

「お前相変わらずだなあ、もっと気ぃ遣えよ。隣のモデルさんじゃなくて、見たこともないような超美人さんだよ。モデルじゃねえ。

いやなんか、お前んとこの兄貴が最期に一目会いたいとか言うから」

「最期なんて言ってない」

 香月さんはムッとして答える。

「ってわけ」

 四対社長は面倒臭そうに終わらせたが、

「え、何々、訳わかんない。気になるじゃん。教えてよ」

 ピリリリリリリリリリ……、静かな院内に文哉氏のスマートフォンから高い電子音が鳴り響く。

「ちょっと待って」

 文哉氏は液晶画面を見ながら空いた左手を大きく開いて掌を見せたが、四対社長は無視して先へ進んでいく。

「待てって」

 あまりにも軽々しく文哉氏は香月さんの白い手首を掴み、「え」という声と「もしもし」という声がかぶる。

 すぐに振り向いた四対社長は

「おい!!」

と怒りをぶちまけん勢いで文哉氏の手を思い切り払い、その細い手首を掴み取った。

「手ぇ出すの早えぇっつっても限界あるだろ」

 眉間に皴を寄せて、先へ進んでいく。

 河野はじっと四対社長の背中を見つめる香月さんを羨ましく思いながら、足早で待相室への案内を続けた。
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