秘書の私、医者の彼

ルームシェアスタート

♦ 
中央区に来たことは何度かある。勤めている会社の本社ビルがここにあり、面接や何やらの事務作業がほとんどだが。

 ルームシェアマンションから本社ビルはすぐそこ。なのに、本社への転勤辞令が出なかったことが残念で仕方なかった。まあ、本社という所は選ばれた精鋭達しか入れない聖域である。それが、単なる引っ越しで移動させてもらえるわけはないのだが、ひょっとしたら望みがあるかもしれないと思っていたのにアテが外れた。

 とりあえず明日は、ルームシェアの手続きが完了したことを報告するために一度本社へ出向いてからいつも通り支店に行かさせることになっている。

 マンションから支店まで一時間半。事態は最悪と言える。

 河野はそんなことを繰り返し考えながら、1人自車を走らせていた。

 トランクにはスーツケース1つ。残りの荷物は1週間ほど前に郵送しておいたので、部屋に届けられていることだろう。

 これで、一応始まる。

 始まるには始まるが、行った後に気がかりになるのはメンツだ。

 よく考えてみれば一つ屋根の下で自分以外が全て男性の場合、風紀はかなり乱れてもおかしくない状況になるといえる。

 それで何年も耐えろと言われて、耐えられるのかどうか、不安にもなる。

 キモオヤジだったらどうしよう……一応正常であれば外見など関係なしに参加メンバーに選ばれるので、自分の好みでない人であった場合人生最悪になると言える。

 色々調べてみると住みやすいように配慮はしているらしいが、さて、どこまで許容できるかどうかは実際会って住んでみないと分からない。 

 そうこうしている間に、高層マンションが見える。

 外観はとても白く立派で高級ホテルのようだ。大きな門扉を潜り抜けると中心に丸い噴水があるエントランスに入る。そこで看板の通り指示された駐車場の番号へ進んで地下駐車場に停車させ、スーツケース片手にロビーへ上がった。

 ロビーはマンションというよりはホテルそのもので、ソファとテーブルがいくつか並びカウンターにはスーツの従業員が2人いる。そのうちの1人は客を相手に受付をしているようで、河野もそのカウンターに寄った。

「あの、これが届いたんですけど」

 指示されていた通り、市役所から届けられたプリントを見せる。従業員は涼しい顔をしてすぐに「こちらの部屋番号になります」と、番号が書かれたカードを手渡してくれた。

「……ここに、行けばいいんですか?」

「はい、どうぞ」

 その笑顔はただの営業スマイルでしかなく、河野は仕方なく2007と記入された場所を目指してスーツケースを握る右手に力を込めた。

 そのままエレベーターを上がり、20階に到着する。シャンデリアがキラキラと光るエレベーターホールに地図はないかと探したが、見当たらなかったのでやみくもに歩いて探すことにした。

 考えてみればマンションに地図はない。

 最初に見えたのが2005、次が2006ということはその奥が2007。

 ここかあ……。

 見上げるほど白く高い扉には目の高さに液晶パネルがはめ込まれていて、その下には黒のアンティーク調の取っ手がついてある。

 河野は思い切ってその取っ手に手をかけ、力を込めて押した。

 が、びくともしない。

 ので、引いた。

 それでも開かず、鍵が必要だと察知する。
 
 もらったカードはカードキーのようだが差し込む場所が見当たらない。

 と、もたもたしていると内側からカタンとロックを解除したような音がしたと思ったら、扉が少しずつ開いた。

「あっ……こんにちは……」

 咄嗟に挨拶をする。

「……」

 だが、相手はこちらに何のアクションも起こさずそのまま無言で部屋の中に入って行ってしまう。

 これが美形じゃなかったら許していないところだが、幸運にも相手は切れ長の目に黒髪の美形で、背が高く体格も整っているクールな雰囲気のイケメンだった。

 黒いポロシャツにベージュのチノパンという軽装な出で立ちも、ポロシャツはしっかりブランドを着こなしておりファッションにも拘りがあるかもしれないと距離感を感じたが、それよりも挨拶をしても無言であることの方を問題視するべきだと考え直す。

「お邪魔します……」

 小声で断ってから、靴を脱ぐ。玄関には一足だけ革靴が置いてあり、バラバラのセンスに抜けがあることに少しほっとした。

 小さな玄関ホールの次がすぐ20畳ほどのリビングになっている。その奥にカウンターキッチンがあり、とても綺麗で新しい造りに河野はここに来て良かったと素直に内心はしゃいだ。

 そして、壁、窓、ドアとぐるりと見渡す。

 奥に進むにはドアが2つある。

 ……ということは、つまり、さっきの人と2人で!?

 イケメンだけど、あそこまで無愛想ってどうなの!?

 うわー……もしかして、ニートだったらどうしよう……。

 勝手に、ドアの向こうでテレビゲームを前に布団をかぶっている様を想像した。

 それにしては、顔が整いすぎているか。

「…………」

 まずは、本当に住人なのかどうか聞かないといけない。

 河野はそう判断してすっと前に進み、奥に進むための左のドアをノックした。

「…………」

 返事はない。だけど、そんなわけにはいかないでしょう!? 

 自分に言い聞かせ、もう一度ドアを叩いたところでドアは向こう側から開いた。

「……あのっ私、今日からここで暮らす者です。あなたもですか?」

 いやもう、単刀直入が一番なんだって。

「そうだ」

 背はかなり高く、180はありそうだ。だが冷たい目線で相手はそれだけ言うとドアを閉めようとする。

「ちょっと!! あのっ、私、初めてで分からないので色々教えてもらえると助かるんですけど」

 でも、この言葉は相手がイケメンじゃなかったら言わなかったかもしれない。

「俺も今日来たばかりだ」 

 まあそうですよね。プリントにはそう書いていたし。

「あの、食器とかどれ使っていいのか分からないんですけど」

 上目使いで目を見て聞いた。時間的にもお腹が空いていたし、まず食事のことを考えたかった。

「別に、その辺りの物を使っておけばいいんじゃないのか」

 いやまあ、そうなんですけど……だって、食事当番とかそういうのがあるかなーって……。

「あの、食事はどうしますか?」

 相手は見下すような視線で睨みつけ、

「食いたい時に自分で食う。……用はそれだけか?」

 威嚇の目線を投げつけられ、河野は仕方なく自らドアを閉めた。

 途端、溜息が出る。

 そうだよね……。一緒に住むったって住所が一緒なだけで、一緒に食事するとは限らないしね……。

 こんな展開?

 これで何年も?

 これなら一人暮らしと変わらないかもしれない……。

 いや、そんなものか。他人との強制共同生活なんて、うまくいく方が珍しいのかもしれない。

 河野は右隣のドアをノックもせずに開けた。予想通り、自分が送りつけた荷物が並べられている。段ボールを解いて片付ける前に、ぐるりと部屋を見渡した。

 10畳ほどの部屋にベッド、デスク、三面鏡など、ある程度の物は最初から備え付けられている。

 無難なシンプルなデザインのよくある物だったが、悪くはなかった。

 段ボールを一つずつ開け、クローゼットや引き出しに順に詰めていく。自分の物を好きなように並べるだけなのでその作業も1時間程度で終わった。

 さあ、食事にしよう。

 何か作って隣の住人にもおすそ分けに行く、というのが女性としての在り方だと思う。

 素直にそう確信した河野は、部屋から出るとキッチンに入り、冷蔵庫の中を確認した。

 中はとても充実していて、野菜、肉、魚、果物、ヨーグルトやビールまで細かく準備が整っている。

 続いてシステムキッチンの引き出しも順番に開けていく。まな板や包丁は数種類あり、道具も完備さていた。戸棚には調味料も揃っている。

 さて、ここで重要なのはメニューだ。

 いくらニートだといえども、あのイケメンにまさかふりかけご飯を出す気にはなれないし、かといってニートかもしれないのにサバの味噌煮など手の込んだ物も必要ない。

「……カレールー……」

 まあ無難に、これでいいか。

 河野は市販のカレールーの箱を取り出し、裏の作り方を見ながら材料を取り出していく。

 実家暮らしの河野は専業主婦の母のおかげかせいか、一年前までほとんど料理をせず今まで育ってきている。母に勧められた料理教室でちらし寿司や天ぷらは習ったことがあるがレシピがないとできないし、和食自体にあまり興味はなかった。

 それが両親の転勤でこの一年は苦労をした。炊飯器の使い方から学び、味噌汁の作り方、果ては野菜炒めまで。結局実際1人暮らしになると白米以外は惣菜で済ませることがほとんどだが、それでも白米を炊く自信があるだけマシだった。

 順に野菜を切り、煮込んでいく。確かうちの実家は隠し味にしいたけを入れていた気がするが、冷蔵庫にはない。まあ今回は隠し味もいらないだろう。

 さて、ルーを入れようかという頃になって、白米がないことを思い出す。

 慌てて米を探して2合洗ったはいいが、今度は炊飯器のボタンに戸惑ってしまう。

 炊飯器がいつも自宅で使っている物とは違うが、同じように炊飯を押すだけでいいのか?

 取扱い説明書が見当たらないのでネットで探そうと思ったところで、隣のドアが開いた。

「あっ」

 丁度今なら聞きたいことがある!

「あの! すみません! 」

 ポケットに手を突っ込んでさっきと同じ格好のまま、外に行こうとしている彼を呼びとめた。

「あの、炊飯器の使い方なんですけど……」

 彼はこちらをじろりと見たが、なんとか寄ってきてくれる。ほっとして、上目使いで聞いた。

「この炊飯器って、炊飯ってボタン押すだけでいいんですか?」

「……それ以外の何のボタンがあるんだ?」

 そのままふいっとキッチンから出て玄関で靴を履いて手ぶらのまま、外に行ってしまう。

「…………」

 何? そんな言い方しなくてもいいんじゃないの!?

 今ので完全頭来たわ……。

 そう思いながらも炊飯ボタンをちゃっかり押し、電子音が鳴ったことを確認する。 

 炊き上がりまでの時間が表示され、なんとか炊飯できるようになる。これで、ネットで確認する手間は省けた。

 さあ、これで45分後にご飯ができる!

「あっ!!」

 今度は肉を入れるのを忘れていたことを思い出し、カレーの方に専念する。

 料理教室行ったのになあ……。

 あまり役には立っていない。

 河野は一通り作り終えると洗い物を前にし、大きな溜息をついて冷蔵庫からボトルのお茶を取り出した。

< 3 / 30 >

この作品をシェア

pagetop