秘書の私、医者の彼


「あれ、仕事してるんだ。悪いけど、ちょっと付き合ってほしいんだけど」

 午後4時半。昼間はランチも部屋で摂った社長の附和は、夕方になってようやく社長室から顔を出してきた。

 目は明らかに、橋台ではなく、こちらを見ている。

「あっ、はい!」

 河野は反射でその場に立ち上がった。

「いや、今はいいから。今日みんなで食事に行こうかな、と思って。あれ、須山君は?」

 附和は、言いながら、秘書室に入って辺りを見回す。

「洗車です」

 数時間前と同じ言葉で、橋台は答える。

「あそう。んじゃ言っといて。6時に、船場吉兆で4人。飲む人―」

 隣の橋台がさっと右手を挙げたことに驚いた。どうやら集計を取っているようである。

「河野さんは? 飲まないの?」

 いや、え、薦められてるということは飲んだ方がいいの?

「飲めるんだったら飲んでみて。これからは接待もあるから。練習に」

「あっ、はいっ」

 返事をしたものの、ビールは苦いし、カクテルを少ししか飲むことくらいしかできない。

「須山君はビール吐くまで飲むからね」

 隣で橋台が頷いた。

「えっ、あっ、強いんですか?」

 河野は附和に尋ねる。

「いや、ビール1杯で吐く。だから、薦めないでいいからね」

 あ、そゆこと……。

「あっ、はいっ!」

「よし、じゃあもうひと踏ん張りして、5時過ぎに出ようか」

「はい」

 橋台が返事をし、それにつられるように河野も返事をした。

 そして、社長が見えなくなるなり、河野は橋台に詰め寄る。

「あのっ、船場吉兆って、すごく高級なところですよね!?」 

 河野は目を輝かせて聞いたが、橋台は目を合せず、

「そうそう……」

と、適当に返事をし、作業を急いでいる。

 河野もそれに合わせて無駄口をやめ、すぐに橋台の指示に従ってファイルを全て棚に戻し、退社の準備をした。



 上座から、附和 薫 社長、その隣に橋台 美咲(みさき) 秘書、その前に河野、その隣に須山 悠基(ゆうき)が座椅子に座り、目の前に等間隔で並べられた前菜を見つめていた。

「はい、頂きます」

 長々とした社長の挨拶があって、乾杯があって、ようやく食事にありつけるものだとばかり思っていた河野は、拍子抜けして、社長を見つめた。

「どうしたんですか?」

 隣に座っている須山が不思議そうに見てくる。

「えっ、いや、何も……」

 河野は皆と同じように箸を割り、小鉢を持った。

「……河野さん、趣味とかある?」

 社長に聞かれ、咄嗟に考える。

「えっと……」

「僕は割となんでもするんだけどね。須山君もボードとかするし、橋台君は小説家」

「えっ!?」

 思いもよらぬ、と思ったが、そういえばその地味さが小説家には向いているかもしれない、と考え直す。

「小説ってすごいですね!!」

 これから一緒に仕事をしていく橋台との関係は、絶対に良い物にしていかなければならない、という強い観念からその言葉が咄嗟に出た。

「…………」

 橋台は俯いたまま、首を横に振る。

「えっ、どんな小説ですか!?」

「ネットで読めるよ」

 社長はさらりと説明してくれる。

「えっ……それって作家さんってことですか!?」

 聞きながら、それは副業に当たるだろう、と真面目な疑問が浮かんだ。

「副業は禁止してるから、ペンネームでこっそりやってるんだろうし、僕は何も知らないけど。

 面白いよね」

 社長公認!?

 社長は少し笑いながら前の須山を見た。

「僕は……正直詳しく読んだことはないですけど。ライトノベルっていうジャンルでしたっけ?」

 ライトノベル……。全くどんな小説なのか分からない河野は、橋台に尋ねた。

「それってどんなジャンルなんですか?」

「……まあまあ」

 あまり詳しくは言いたくないのか、頷きながら、小鉢を丁寧に持って小さな口で上品に食べる。

「あ、また機会があったら、私にも小説教えて下さい」

 控えめに興味がありそうなフリをする。

 そうしているうちに、次々料理が運ばれ、テーブルの上が皿でいっぱいになってくる。

 話題は大方、須山が持ち出し、延々と趣味やら時事やら何から何まで話続け、社長は時折相槌を打ったり打たなかったり、河野も、今日初めて会ったばかりで空気がうまくつかめずろくに返事ができなかったが、橋台だけはそうではなかった。

「ね? 橋台さん。ボード、来年こそは行きましょう。僕、教えますから」

「いい、いい。私、興味ないから」

「またまたぁ、やれば面白いんですって。なんなら横で小説書いててもいいですから、僕が運転しますよ」

「いいって! 私アウトドア嫌いだから」

「虫が嫌いなんでしょ? でも雪山には虫いませんよ」

「濡れるのが嫌」

「拭けばいいじゃないですか」

 うまく話がかみ合っているのかどうかは分からなかったが、仲が良いことはまあ、確かなようだった。

「……4人で行こうか」

 突然社長が真顔で提案する。こうして見ると、須山も若いイケメンではあるが、格の違いを余計に感じさせた。

「絶対嫌です!」

 服従してなるものかと、橋台が猛抗議する。

「河野さんはどう?」

 社長は黙っているこちらにも話を振ってくれる。

「私は、2、3回連れて行ってもらったことがある程度で……もう今は滑れないかもしれません」

「……嫌です。嫌。絶対。須山君と2人で行って下さいよ、それか、河野さんと。私は絶対行きません!」

「強情だなあ」

 社長は愉快そうに笑う。

「いつものことですけど」

 須山も楽しそうだ。

 男性2人は橋台をからかって楽しそうだが、当の橋台はそうでもなさそうだった。河野は実に微妙なラインにいると言える。

「あ、河野さん、飲んでね。はい」

 今まで1人で飲んでいた社長が突然、とっくりを傾けようと腕を伸ばしてきた。

 河野は慌てて両手でお猪口を差し出す。

「飲める? 」

「……大丈夫だと思います」

 普段、焼酎や日本酒はほとんど飲まず、この、注がれたお猪口の中の液体が何の酒なのか全く分からなかったが、ゆっくりと口づけてみる。

「…………」

 生温かい。

 そして、喉が熱い。

 すぐにお茶かお吸い物で喉を潤わせたかったが、社長の目が気になり、仕方なく、冷たい刺身を口にした。

 魚の生臭さで、なんとか乗り切れる。

「イケる口だね、はい」

 全く気付いていない社長は、再び同じように腕を差し出してくる。河野はまた、同じようにお猪口を差し出した。

「結構飲めるんですね」

 隣の須山がそう口にした。

「飲めるったって、まだこんなちょっとだよ? まあ、君からしたら大酒かもしれないけど」

 社長は、見下すように笑った。

「いやー、うまい酒ならいいんですけどね」

「失礼な! これ、日本で100本限定だよ? 全く、酒の味が分からない奴だなあ」

「僕、飲んでませんけど」

 おいおい、一般社員の須山!! それが社長に対する言葉遣い!?

 その間にも、河野はお猪口を空けなければいけない、という固定観念に囚われて、鼻をつまむように、ただ喉の奥に流し込む。

「河野さんは、いつも何の酒飲んでるの?」

「いつもは、あんまり……」

「顔赤いよ?」

 前の橋台がこちらを見ながら、ウーロンハイを口にした。そっちなら飲めたのに、と河野は思ったが、そういえば注文もしていないのに途中で橋台の前に、ウーロンハイが並んだ。誰かが予約をしていたのだろうか。

「顔に出る方がいいんだよ。飲んでも顔に出ないと酔ってるかどうか分からないから、飲みすぎるんだよね」

 社長は、慣れた手つきで自らとっくりを傾け、お猪口で飲む。

「飲まないのが一番ですよ」

 須山はここぞとばかりに大きな態度をとる。

「飲めない奴が偉そうにするな」

 社長は、笑いながらだが、ようやくそれらしく威厳を示した。



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