牙龍−元姫−
ハッとし、響子は勢いよくソファーから立ち上がった。
「ね、ねえ!」
ガタッと立ち上がった響子を、座りながら見上げるカン太。
響子を見ながら千秋は薄ら笑っている。
知っていながら黙っていた彼。普段なら自分を嵌めた千秋を咎める所だけど、そんな余裕は今の響子になかった。
「わたし、帰る」
そう言う響子の額には薄らと冷や汗が流れていた。
そんな暑くもない店。汗が出るほど暑くもないのに。
「え?…ッええ!なんでっすか!ま、待ってくださいっすきょん姉さん!」
あわてふためくカン太。慌てたいのは此方だと響子は言いたくなった。
静かな喫茶店。落ち着く喫茶店。【Noel】特有の呑まれる雰囲気を今は感じている余裕すらない。
「で、でもこれから用事があるから……」
カン太に負けず劣らず焦って言い返す響子。
肘をつき千秋は、口を挟まずにただ二人を見つめるだけ。
私は気がついていなかった。
この席の事を、よく理解していなかった。
店に入ったとき死角で此処の席は見えなかった。
店の―――ガチャン――となる音も2人には聞こえなかった。
ならいま此処に座っている私も、【Noel】に入ってくる人に気づかず音も聞こえない筈だ。
その状況下に、
何故気が付かなかったのか…
焦ったように帰ろうとする私の肩に手が置かれ、拒まれる迄。
焦ったように帰ろうとする私に、聞き慣れた声が届く迄。
どうして、
気付けなかったの―――?
(来なきゃ良かった)
(こんなの、想定外だよ)