く ち び る
男が唇を開く。
『――――』
初めて出会った瞬間と同じ、音だけが聞き取れなくて。しなやかに動く唇から、どんな音が奏でられているのか。
聞き取れない自分の耳を、恨む。
唇は、こんなにも美しく揺れているのに。
「こっちの音じゃ、表現できないんだよ」
彼は、男は、どこの世界の人なんだろう。わたしの夢が作った、妄想の万物に過ぎないのだろうか。
困ったように笑った男は、目に垂れる髪をかきあげた。
「そーだな、恵生でいいや」
「ケイ?」
「俺の名前。恵みに生きるで、恵生」
「それ、わたしの名前の漢字、」
「そ、適当にこっちの文字にしただけ」
似合ってるだろ、と笑う男は、あいかわらず美しい。
自分の名前も美しいものになったかのような錯覚を起こす程には。